ふわりと甘い香りが街の中を漂う。そのにおいを嗅いで、ようやく静雄は今日がバレンタインであるということに気づいた。
別に渡す相手もいない。だから、そのことに気づいても静雄はなんとも感じなかった。ただ、いつも世話になっている上司になにか贈るべきだろうか、と小さく首を傾げたくらいだ。

街を行き交う女の子が、嬉しそうにラッピングされた袋を持っている。恋人に渡すのだろうか? 静雄には恋人のようなものはいるが、甘いものをもらって喜ぶような恋人はいない。だから、そんな男にチョコレートなんて渡しても、きっと喜んでくれないだろう。
そう思うと、静雄は少しだけ胸の奥が痛んだ。チリッと焼け焦げるような痛み。どうやら、自分はこれでも女だったらしい。少なくとも、たとえ喜んでくれなくても、臨也にチョコレートをあげたいと思うくらいは。

静雄はガラスのショーウィンドウに目を走らせる。カラフルな、愛らしいチョコレートたち。きっと、静雄と臨也の関係を考えると、それらは彼らの非常に相応しくない。
恋人だけれど、体だけの関係にすら思える冷めた関係。
静雄は今でも、臨也が本当に自分のことを愛しているのかわからない。臨也のことを信じられたのは、唯一、彼が静雄に「恋人になってほしい」と告げたあの時だけだった。

(別に……遊ばれてると思っているわけではないけど)

やっぱり、ふたりの今までの関係からすぐに打ち解けた恋人になるのは難しいらしい。
そもそも、彼らは意地っ張りで素直になれないところがある。「愛してる」という言葉を互いに相手に言ったことがないくらい、本当に呆れてしまうほでに天の邪鬼同士だ。
静雄はため息を吐く。自分がいけないのはわかっている。いくら臨也が優しい言葉をかけてくれても、照れ臭くてそっけなく返してしまうのは静雄の方だ。
そして、そこでまた喧嘩が始まる。けれど、静雄はわかっていた。臨也は静雄と恋人になってから一度として彼女に手を上げていない。臨也は、ここまでも静雄の為に変わろうとしてくれているのだ。
静雄はキッとショーウィンドウに映った自分の姿を睨む。ならば、自分の方も、臨也の為に努力をしなければならない。自分は素直じゃないから、なんて言っていたら駄目だ。
静雄は足早にこの場を去り、近くのコンビニへと向かう。既製品よりも、できるだけ自分の手を加えたものを渡したい。他人が作ったチョコレートなんか渡したくないと思ってしまうくらい、静雄は臨也が好きだった。










インターフォンの音に、少し微睡んでいた頭が醒める。
こんな遅くに誰だろう? こんな時間に訪ねてくる客は今のところ思い当たらない。最近は、そこまで急を要する情報はなかったはずだ。

「シズちゃんだったりして」

戯れに口に出し、勝手に傷つく。静雄が臨也に呼び出されずに訪ねてくるなんてありえない。本当に臨也のことを愛してくれているのかが疑わしいくらい、静雄は淡白でそっけなかった。

(いや……、)

本当はわかっている。彼女はそっけないのではなく、まだ戸惑っているだけだということを。
静雄は長年孤独な生活を送っていた。数少ない彼女の理解者と、それ以上にいる彼女に危害を与える者。後者の代表は臨也だった。
そんな臨也に突然恋人になってほしいと言われ、突然優しくされる。それでは、困惑しないわけがない。臨也の静雄に対する愛も、きっとまだ信じきれていないに違いない。

悪いのは臨也だ。間違った方法で静雄の目をこちらに向けさせ、その為に幾度となく彼女を傷つけてきた。女子高生としてたくさん思い出を作りたかったろうに、彼女が高校生の時を思い出せば必ず暴力が過るだろう。恋とか愛とか、そんなものに慣れているわけがない。
臨也はため息を吐く。馬鹿な考えだが、今ほど過去に戻れたらと思うことはない。もっとも、過去に戻ったとしても、また同じ過ちを繰り返すだけの結果になりそうだが。

ピンポーンと再度鳴る。うるさいな、今行くんだよ。臨也はやつあたりのように、乱暴に扉を開けた。

「はい、何の用―――」
「あ、わ、悪い。もしかして、忙しかった、か?」

顔も声も不機嫌に揃えて扉の向こうを見れば、申し訳なさそうに小さく呟く恋人の姿。ふるふると震えているのは、寒さのためか、それとも……。
臨也は慌てて不機嫌な顔を笑顔に変える。彼女を傷つけるわけにはいかない。傷ついて泣きそうな彼女は綺麗だけど、できれば幸せそうに笑っていて欲しいのだ。幸せにしたいと思うくらい、臨也は静雄のことを愛していたから。

「全然。ただ、客だったら嫌だと思って不機嫌だっただけだよ。シズちゃんなら大歓迎だ」
「そう、か……」
「そうだよ。さ、上がって。外は寒かっただろう?」

そう言って静雄の腕を掴むと、「待って!」と珍しく彼女は必死な声で言った。何かと思って首を傾げると、静雄はうつむいてごにょごにょと呟く。

「……暇で、キッチンに行ったらチョコレートがあって、そういえばお菓子の本が家にあったな、って」
「え?」
「だ、だからっ」

静雄は臨也を睨み付けて言った。

「あげるやついないし捨てるのもったいないから、やるよ!」

押し付けるようにして渡されたのはベビーピンクの紙袋。中にはきちんとラッピングされた四角い物体。
そして、先ほどまで見ていたパソコンの画面左下を思い出す。確か、今日は―――2月14日。
まさか、いや、でも。混乱する脳内は、けれども静雄のうっすらと赤い顔に秩序だてられてゆく。バレンタインデーと頬を染める女の子。答えは明らかにひとつだ。

臨也は大きくため息を吐く。全く、この子はなんてことをしてくれるのだろうか?

「臨也、いらないなら……」
「馬鹿。いらないわけないでしょ」

不安そうな静雄をぎゅっと抱き締める。彼女からふわりと香るシャンプーのにおいに心が躍った。
かわいい、かわいいなぁ、もう。いつもツンとしていてクールビューティーな彼女となんたるギャップだろう? 今も抱き締められるだけで耳を真っ赤にして、本当にかわいらしい。

一般的な恋人よりもぎこちないかもしれない。
けれども、彼女と自分の間には、確かに強い愛情が存在しているのだ。
少なくとも―――マンションの廊下で一時間以上抱き締め合っても足りないくらいは。







少しずつ、
ぎこちないけれど、
育まれるは本物なのです


(抱擁の終わりは、腕の中の愛しい彼女の小さなくしゃみ)



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