海の色はあまりにも綺麗な真っ青で、雲ひとつない空との境界がほとんど見えない。
音は波と風だけ。その静寂に、時間の経過が曖昧になる。

これが望んでいたもの、なのだろう。こういう静かなところでゆったりと時を過ごす。それはたまらなく魅力的で、けれどもすぐにここから去らなければいけないから、俺はひどく残念な気持ちになった。
仕方ない。そろそろあいつがここに着く頃だ。
俺は野球帽を目深に被り、更にひとがいないところを求めて、今度は山の方に向かう。








ここはハイキング用に整備された道ではない。けれど、池袋の雑踏よりも、林立した木をすり抜ける方が容易く感じた。
倒れた巨木を乗り越え、長い草をかきわける。ぐんぐん休みなく進んでいるのに何でだろう、と俺は嘆息した。どうして捕まってしまうのだろう?
ほどなくして掴まれる手首。振り返るまでもない。だって俺は、そこに誰がいるのかを知っているのだから。

「離せよ」

俺の口から出たのはは至って穏やかな声。当たり前だ、俺はなにも怒ってなんかいない。
別に、お前が何人女を抱こうが、それを俺の目の前で行なって見せようが、俺の逆鱗に触れることはないんだ。わかったら、離せ、臨也。

「嫌だ」

頑なに拒む彼の声は、何故だか微かに震えている。ふと、こいつは俺が自殺をしようとしているのだと思っているのだろうか、と首を傾げた。
馬鹿じゃないのか? 自殺ならこんなところまで来る必要はない。そもそも、俺が簡単に死ねるわけがないだろう。

臨也は瞳を暗くして、ギッと俺を睨む。

「シズちゃんはさ、リセットしようとしてるんだろ」
「リセット?」
「多くの場合、それは自殺なんだよ。死は確かにリセットかもしれないが、それはもしかしたらデリートかもしれない。来世がある保証もないからね。だから、よっぽどのことがない限り、ひとはリセットをしない」
「で、俺にはよっぽどのことがあった」
「…………そうだ」
「しかし、俺は簡単には死ねない」
「うん、そうだ」
「じゃあ、俺はどうやってリセットをすればいいんだ?」
「俺のことを、忘れようとしたんでしょ?」

臨也が女を抱いているのを見た時、不思議と怒りは感じなかったのだ。
感じたのは深い悲しみ。あまりの衝撃に呆然とした顔のまま、今まで感じた中で一番痛いと俺は思った。
痛みは簡単には忘れることができない。しかし、俺は臨也の更正や謝罪よりも忘却を選んだ。
彼がいないところへ、彼がいると感じさせないところへ、彼がいたいと思わないところへ。
田舎に来たのは、ひとを愛する彼が最も嫌うところだと思ったからなのだ。

「君が俺のことを忘れる。それだけは、絶対に許さない」

嘘つけ。お前はもっと多くのことを俺に許してくれないじゃないか。
例えば、俺が死んだりすることとか、俺がお前に無関心でいることとか。

「あんなことをしたことは、謝るよ。君を傷つけるつもりだった。だってそれは、君が俺を愛している証だろう?」
「謝罪は必要ない。今更謝られても、なんにも変わんないからな」
「じゃあ、君は俺にどうして欲しいの? 俺は、君を取り戻す為に、なにをすればいい?」
「一度落ちたら、戻らないだろ」

そう、自殺とはそういうものだ。運よく命が助からない限り、落ちてしまえば元には戻らない。
リセットは完了したのだ。あとは、新しい人生を待つだけ。

「でも、君はまだ俺を忘れていない」
「忌々しいことにな」
「これは、滑り込みセーフかな? これ以上奥深いところに行かれたら、さすがの俺でも探すのに手間取っただろうし」
「さあな、そんなことは皆目わからない。俺はリセットすりつもりはなかったし」
「え…………」

ぺらぺら話していた臨也は急に押し黙る。それを契機に彼の方に振り向けば、自慢の眉目秀麗な顔が間の抜けたものになっていた。はっ、ざまあみろ。

「え、ちょ、待って。君はここにリセットに来たって」
「お前が勝手に言ったことだろ。俺は一度も肯定していない」
「一度落ちたら戻らないって」
「一般論だ」

臨也は唖然とした顔で、小さく呟く。

「俺とか俺がしたことを忘れようと思って、ここに来たわけじゃないの?」
「そうするつもりもあった」
「そうしない場合も?」
「お前が俺を探しに来るなら」

俺は周りを見渡す。目に映るものは、木と草と土と空。人間は俺と臨也だけ。思わず、顔に満足げな笑みが浮かんだ。

「なあ、臨也。俺は本当に怒っていないんだ。自分でもそれにすごく驚いている。けど、俺は悲しかった」
「シズちゃん……」
「でも、その時にふと思ったんだ。彼女は臨也とふたりきりじゃない。俺と臨也が会う時はふたりきりなのに。それが妙に嬉しくて、悲しみが少し紛れた」

だったら、見渡す限り俺と臨也しか存在しない光景を見れば、この痛みも紛れるかもしれない。
俺はそう思い立って、短い逃亡劇を始めた。
ひとがよりいないところへ。そんなところを選んだのは、臨也への嫌がらせだけではないし、こんな辺鄙なところに来てまで俺を求める彼を見たかったからだけではない。
確かにそれらもあるが、こうやってふたりの声と風の音しかしない空間こそ、俺が本当に求めていたものなのだ。

だから、俺は満足げに笑う。

「だから、この状況でお前といるだけで俺はもう十分なんだ。悲しみもほとんど消えるくらいの喜びを、今この瞬間にお前から貰っているんだよ」
「……馬鹿じゃないの。ほんとに馬鹿だよ、君は。こんな俺を罰することも許すこともしないで、ただ受け入れるなんて」

臨也は泣きそうな笑みを浮かべた。
ああ、こんな情けない姿を見れるのも、きっと俺だけの特権。

「ねえ、君はほとんど悲しみが消えたって言ったよね。ほとんど、じゃ駄目だよ。俺が与えた痛みを完全に忘れるには、俺は君になにをすればいい?」

ひどく真剣な臨也の顔にひたりと手を這わせて、俺は自分の欲求をそのまま彼にぶつけた。

「お前しか考えられなくなるようなキスをしろ」






それで勘弁してやるよ



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