そういえば今日はまだ紫煙のにおいを嗅いでいない。 臨也は来客用のソファに座る静雄を見る。相変わらずの無愛想な顔には不機嫌そうな、そして気だるげな色が浮かんでいた。その顔が少し色っぽいなと思ったことは、頭の固い彼には絶対の秘密だ。 瞼を開けるのも面倒といったように細められた瞳。トントントンと小さな音で机を叩く指先。長い足を組んでソファに寄り掛かる静雄を見ていたら、仕事をしているのがばからしくなってきた。 期日もまだだし、まあなんとかなるだろう。臨也はデスクを離れて、不機嫌な男の傍までゆっくりと歩いていく。くしゃりと痛んだ色素の薄い髪の毛を梳けば、ちょっと怒ったような茶色と目があった。 「……うぜえ」 「今日はやけに機嫌が悪いねえ」 まだ禁煙続けているんだ、と茶化すように言えば、ギロリと刃物のような視線を向けられた。ああ、怖い怖い。飢えた獅子は容易にこちらに牙を向けてきそうだ。 ピリピリしている静雄のためになにか甘いものでもいれてやろうかと思ってキッチンへと足を向けようとしたとき、ふと脳裏に面白い考えが過った。ひょっとしたら火に油を注ぐような結末を迎えるかもしれないひどくスリリングな考えに、背筋がぞっとするくらい気を引かれる。無意識に自分の唇をぺろりとなめた。 ゆるむ口許を静雄に気づかれる前にそっと隠す。不機嫌な彼の瞳が一瞬こちらをとらえたような気がした。 「ねえ、やっぱり喫煙って口寂しいものなの?」 「はあ?」 「だってほら、さっきから何度も唇をなめてる」 荒れちゃうよ、と言って静雄の少しかわいた唇を指でなぞる。ぴくりと動いた眉尻、文句を言うかのようにこちらに向けられる睥睨に、臨也はあだっぽく微笑んだ。なんでだろう、さっきコーヒーを飲んだばかりなのに、静雄の顔を見たらひどくのどが渇いた。 「君の喫煙の手伝いをしてあげようか」 「何を言って―――」 「だってほら、俺は君の恋人だから」 耳元で子守唄を歌うように優しく優しく囁いてやる。体を押し返そうと臨也の肩に触れた静雄の右手をやんわりと握りこむと、中途半端にやさしい男は手から力を抜いた。 そんなんだから俺みたいなのにつけこまれるんだよ。臨也は静雄から見えないようにこっそりと苦笑する。全く、これではどっちが飢えた獣なのかわからない。 まあ、ここで捕食をやめてやるほど自分はやさしくない。臨也は静雄の顎にそっと手を添え、くいっと伏せられていた彼の顔を上向ける。 瞬間―――静雄の顔は確かに捕食者の顔をしていた。 「要らねえよ」 がしりと大きな手に口を塞がれる。さっきまでおとなしくしていたはずの静雄の左手だ。わずかな息苦しさに抗議のまなざしを向ければ、静雄はやけにきれいに笑った。それだけでもう、なにも言えなくなる。 「なあ臨也君よお……、手前は俺の恋人なんだよなあ?」 きっとなにも意図せずに放たれた声。それなのにどうしようもなく色めいて聞こえるのは、君がそんなに攻撃的な顔をするからだろうか。ぞくりと震える体に追い打ちをかけるように、静雄は獰猛な笑みをしてこう言った。 「なら不公平だと思わねえか? 俺だけ我慢するなんて」 だから、手前もがまんしろよ。 さらりと告げられた言葉はあまりにも残酷な内容だ。ここまで煽っておいておあずけだなんて随分なことを言ってくれる。この暴君をその気にさせるための途方もない労力を考えていたら、けれども、なぜだかいたく愉快な気分になってきた。 降しがたいからこそ服従させるかいがある。おびえを持たない強い瞳を見て、臨也はどうしようもなく彼にキスをしたくなった。 手始めにそのきれいな指に噛みついてやろう。甘く、ちょっと強めに。そうして、煙草よりやめるのが難しい甘い誘惑を、しっかりとその身体に思い出させてやるのだ。 back |