カタカタとひっきりなしに聴こえてくるタイピングの音が、少しだけ耳につく。静雄はげんなりとした表情で手にしている雑誌のページをめくった。
 沈黙には種類があると思う。静雄はあまり体系的に考えることを得意としていないが、ふたつに分類するくらいならさすがに可能だ。すなわち、気まずい沈黙かそうでない沈黙か。この嫌なくらいひんやりとした今の状況は、疑いようもなく前者にあてはまる。
 別に喧嘩をしたわけではない。たぶん、特に臨也の機嫌が悪いわけでもないのだろう。どうしてそんなことが言えるのかといえば、この雰囲気はもう慣れたものだからだ。まるで冷め切った間柄のような空気、それは付き合ってからもずっと変わることがなかった。
 歩み寄ろうとしたこともある。だが、この天性の短気は名だけでなく、すぐにひどい喧嘩になってしまった。それに、静雄が積極的になればなるほどなぜだか臨也の態度は硬化し、驚くほど拒絶的になる。まるでふたりの間にある一定の間隔を欲しているかのように、彼は静雄に近寄ってこられるのを嫌がっていた。
 そういえば、キスをしたのはいつが最後だっただろう。乾いた唇をひと舐めして、静雄は瞳を細める。まったく、恋人だなんて名ばかりだ。
 ああ、煙草が吸いたい。口寂しさをうめるのは飴ではなく煙草がいい。この状況に甘さは似合わないから、なにか苦いものを噛みくだきたい。

「……ねえ、なにか言いたいことでもあるの」

 最初、不意にかけられた言葉が自分に向けられたものだとは気付かなかった。だが、数秒して、そういえばこの部屋には臨也のほかに自分しかいないということを思い出した。目をしっかり開いて臨也を見れば、彼の瞳は冷たい色をしていた。

「言いたいことって、なんだよ」
「聞いているのは俺だよ」
「別に、なにもねえけど……」
「じゃあどうして溜息なんて吐いたの?」

 そうか、俺は溜息を吐いていたのか。静雄はぼんやりとした顔で「悪い」と短く呟く。それが良くなかったのか、臨也は乱暴に椅子から立ち上がるとソファに座っている静雄の元まで近づいてきた。
 パシリと手首をとられる。ギリッと強く握りしめられるが、その痛みも静雄にとってはぼんやりとしたものでしかない。

「不満があるなら言えよ。君の口は暴言しか吐けないのか?」
「……そうかもなあ? お前に不満を言うことと暴言を吐くことはほとんど同じだ」
「俺になにか落ち度があると言いたいの?」
「逆に俺が溜息吐いた原因が手前にねえと思ってんのかよ」

 臨也なら平然と「ないけど?」と嘯くものだと思っていたが、目を細くして舌打つ彼を見る限り否定をする気はないらしい。自分の落ち度は認めているくせに、それならなぜ静雄を中途半端に拒絶するのか。やるからには完全に拒絶してくれればいいのに、彼は静雄を手放すことをしない。
 ならばこちらから手を離せばいいだけだ。静雄は臨也の手をやんわりと払い、うっすらとついた彼の手跡をなぞるようにさする。

「最初から間違ってたんじゃねえの? だから、もう――」
「言うな」
「臨也」
「言わないでよ」

 怒鳴り声のようで泣き声のようなその声に、静雄はどう対処すればいいのかわからない。別れを切り出そうとしただけでこれほど萎れるのなら、なぜ静雄に背を向けるような態度をとるのだろう。臨也の本心は、付き合ってみた今でも一向にわからなかった。
 戸惑う瞳を臨也に向ければ、彼は切羽詰まった表情で再び静雄の手首を握ってきた。今度は両方の手首を手のひらの中におさめ、すがりつくように爪を立ててくる。

「間違ってなんかいない」
「……俺には、俺たちの関係が普通の恋人とは思えねえけど」
「なら、恋人らしいことをすればいい」

 グッとソファに押し倒され、首筋を少し強めに噛まれる。傷なんてできないだろうに。悔しそうに何度も歯を立ててくる臨也に今度は意図的に溜息を吐いた。それだけでぴくりと眉尻を動かす臨也に静雄は盛大に顔をしかめてみせた。

「わかった。もう、好きにしろ。お前が、俺のことをまだ手放したくないってことはよくわかったから」

 俺はそれがわかればいい。そう呟くと、臨也はまた複雑な顔をした。彼は言葉だけでなく、感情も面倒なくらい複雑だ。そんなに考えても疲れるだけだろうに。

「俺は、そういうシズちゃんが好きだけど嫌い」

 首筋を濡らす液体からわずかに鉄のにおいがする。きっと、傷を残すことに成功したのだろう。
 ピリッと痛む小さな傷跡を臨也はそっと撫でてきた。

「その優しさは俺だけに向けられたものではないよね。君が俺を許すたびに、俺はいつも思う。君はいつか俺じゃない誰かを許すんじゃないかって。君はなかなか心を許さないけれど、一度許せばこんなに優しい」

 だからね、と臨也は指先についた静雄の血をぺろりと舐めて、言う。

「いつまでも気をゆるめることができないんだ。いっそ、喧嘩ばかりしていたころに戻れたらいいのにね。俺がちょっかいをかければ、君はバカ正直に反応してくれたあのころに。でももう戻れないし、手放せない」
「じゃああれか、これからもこのクソ重い空気に耐えろってことか」
「いったん素直に心を許しちゃったら、切り捨てられたときにダメージが大きいだけだからねえ」

 けらけらと笑う臨也からは先ほどまでの悲壮な表情がまったくうかがえない。それでも、彼は嘘をついていないのだろう。さっきよりはやんわりと、けれどもいつまでも静雄の手首を握りしめている彼の手はわずかに震えていた。
 猜疑心が強く、こんなにめんどくさい男、好きじゃなかったら誰が付き合うか。そう怒鳴り飛ばすこともできた。けれど静雄はそうしなかった。
 それを言わずとも、この一言だけあれば十分事足りるだろう。

「じゃあ、その時は殺せばいいじゃねえかよ」

 その言葉に臨也は一瞬きょとんと呆けたが、すぐに声高く笑い始める。それはあまり気分がいいものではなかったが、今回だけは少し譲歩してやった。こんなことにいちいち腹を立てていたら身が持たない。

「まったく、シズちゃんって本当にわけわかんない。殺すなって言ったり殺せって言ったり、少しは自分の言葉に責任を持ちなよね」
「……てっめえ、それ以上無駄口叩いたらさすがに怒るぞ」
「おお怖い。じゃあこれくらいにしとこうか」

 喧嘩はもう飽きちゃったしね、なんて臨也こそさっきの言動と矛盾するようなことを言うから静雄はうんざりとする。けれど彼の顔を見たら、なんだかもうどうでもよくなってしまった。
 現金な男だ、もうこんなにゆるんだ表情をして。静雄でも整っていると認めるその顔は、びっくりするほど甘く優しかった。

「じゃあ君のご要望通り、たんと甘やかしてあげよう」

 だから俺のことも甘やかしてね?
 にこりと食えない笑みでそう言う臨也は、いつのまにかに静雄の手首を解放していた。それを少しさびしく思う自分も、知らぬうちに相当めんどうな男になってしまったのだろう。びっくりするくらい優しく抱きしめてくる臨也に気づかれないように、静雄は手首にわずかについた彼の爪痕に触れた。

 消えてなくならなければいいのに。痕も、臨也の自分へのめんどうな愛も。
 もしそれが消えてしまったら、俺も臨也を殺してしまいそうだ。そんな言葉を胸の奥にそっとしまった。







☆水那さん
付き合っている設定の臨静。臨也さんが素直になれないお話。



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