今更だけれど、静雄と臨也の確執は簡単に解決するようなものではない。たとえふたりが恋人関係になったとしても、それですっきりさっぱりうまく行くというのはいささか都合が良すぎる話だろう。
 手を伸ばしても届かない。指を絡めようとしてもやんわり避けられる。口を開けば喧嘩ばかりで、最悪なことに彼らは互いを傷つける言葉を熟知していた。傷つけて傷つけられて、少しずつ疲れてきたころ、思えば付き合いはじめてから一カ月が経っていた。

「静雄君、クマひどいよ?」

 教室で新羅にハンドミラーを渡されて自分の顔を見る。疲れた顔をしているな、とぼんやり思った。天敵である臨也より恋人になった彼に罵られる方がよっぽど堪える。好きだと思って受け入れた相手からの攻撃は、内面からチクチクと確実にこちらを痛めつけてきた。
 穏やかに語らうこともなく、戯れに触れ合うこともない。ただ互いに疑心暗鬼になって、勝手に相手を拒絶しているのだろう。それがちゃんとわかっているからこそ、痛かった。
 軽い催眠剤、いる? 新羅はいつもと変わらない顔で淡々とそう言う。それは抗いがたい魅力的な提案だったけれど、静雄は首を横に振った。薬に頼りたくないとか、そういうわけではないけれど、

「まあ、これを飲んだからってすべてが解決するわけじゃないからね」

 まったくのその通りだ。静雄は黙って曖昧な表情を浮かべて、このひどい顔をどうにかするために教室から出て行った。



 トイレの洗面台で顔を洗ってもなんの効果もなかった。静雄は溜息を吐く。どうにも教室に戻る気分ではない。そもそも、こんなぼんやりした頭では授業を受けても意味がないような気がする。
 ならばと静雄の足は屋上への階段に向かう。サボるのに保健室を選ばなかったことに大した理由はない。ひんやりと冷たいベッドより暖かい日差しの屋上で寝たいな、となんとなく思っただけだ。
 その選択はたぶん失敗だったのだろう。屋上にはすでに先客がいた。
 後姿だけでわかる。屋上の手すりを掴み校庭を見下ろす彼は、だいきらいだったあの頃とちっとも変っていなかった。
 臨也はまだ静雄に気づいていないようだった。それなのに静雄が彼に気づかれる前に立ち去らなかったのは、その香りのせい。屋上に吹く風に掻き消されながらもわずかに漂う苦いにおい。さして美味しくもなさそうに煙草を吸う臨也の横顔は、ぼんやりとした隙の多い表情をしていた。気だるげ、その言葉が正にぴったりだ。

「ねえ、いつまでそこに突っ立ってるの」

 不意に声をかけられて、思わずビクリと体を震わせた。
 臨也の口許から紫煙が立ち昇る。まるで拒絶されているようだった。

「手前、それ……」
「ああ、言いたいなら教師にでも誰にでもどうぞ?」
「別に、言わねえけど」
「ふうん。真面目なシズちゃんにしては珍しい」

 言葉の節々から感じる棘に静雄は眉をしかめる。別に甘い囁きを期待しているわけではないのだけど、ここまで攻撃的な態度をとられるとかなり苛立たしい。沸々とわき立つ怒りのままに暴言を吐きそうになるが、歯を食いしばってなんとかその衝動を耐えた。ここで怒りを爆発させれば、以前の殺伐とした関係に後戻りするだけだ。
 静雄が黙り込むと、臨也も喋るのをやめた。彼の方も静雄と喧嘩をするのを控えようと努力しているらしい。そのふたりの努力の結果、溜まった鬱憤を晴らすように盛大な喧嘩もできない。ぎくしゃくとしたぎこちない雰囲気だけがただそこにあった。
 その居心地の悪さに、静雄は思わず溜息を吐いた。
 煙草の灰が、わずかに落ちる。

「それで、何か用なの」

 その言葉の冷たさに静雄は一瞬怯んだが、なんとかそれを表情に出さずにとどめた。
 動かない足を叱咤して臨也の近くに足を進めた。行き場のない手を臨也のように屋上の柵の上に置くと、彼の手はサッと逃げる。その一連の動きこそが今の自分たちの関係なのだろう。逃げて逃げられ、その手が交差することはない。

 臨也の綺麗な手を見てぼんやり思う。逃げる側はいつも臨也ではない、自分もまたそうなのだ。

「やめて」
「……は?」
「そんな目をするくらいなら会いに来るなよ」

 唐突に告げられた言葉は刺々しいというかほとんど悲痛な響きをしていて、乱暴に言われたにもかかわらず怒る気も湧いてこなかった。ぽかんと呆気にとられていると、臨也は言いにくそうに自分の爪先を見下ろしながら、そっと呟いた。

「シズちゃんはさ、俺と居たって楽しくないかもしれない。確かに今までの印象が最悪過ぎたからね。急に心を許せとは言わないけど……それでも、少しくらい」

 その後に続く言葉はいつまでも耳にすることができなかった。
さあっと大きな風がひとつ吹く。臨也が黙った後の屋上は驚くほど静まり返っていた。それでも気まずいと思わなかったのはなぜだろう。気が付けば、静雄は無遠慮に臨也の煙草を持っている方の手首を掴んでいた。
 痩せた、気がする。見た目ほど細くはないが、すらっとしている臨也の体が少しだけ骨ばって見えた。几帳面に体調管理をしている彼らしくない。そう思うと、自然に口許が緩んだ。

「な、なんで今笑うの……」

 臨也は呆然とした様子で静雄を凝視する。俺があれだけ気を遣ってもにこりともしなかったくせに。その言葉はお互い様ということで、聞かなかったことにした。
 お前だって、口を開けば嫌味か皮肉しか言わないくせに。ひとりだけ被害者ぶってんじゃねえよ。そう戒めるつもりで。握った手首に爪を立ててやる。ぴくりと動いた臨也の手は、それでも煙草を離そうとしない。 

「なあ、煙草ってまずいのか」
「……なんで急にそんな話になるのかな。もっと空気を読んでよ、今のこの状況の空気を」
「ごちゃごちゃうるせえ。うまいのか? まずいのか?」
「おいしくはないけど、」

 吸いたいのなら、と臨也が空いている手の方でポケットを探るのを制し、静雄も空いている方の手で学ランの襟元を乱暴に掴む。ぐいっと首を絞めるように引き寄せれば、口内にむせるような苦みを感じた。

「確かにまずいな」
「……ねえちょっと、いきなりなにをしているのかな」
「だって空気を読めってお前が」
「もう、うるさい。君に俺と同じ価値観を要求する方が馬鹿だった。もういい。俺も勝手にさせてもらうから」

 すっかりいつもの調子を取り戻した臨也は、手にしていた煙草をためらいなく捨てる。その時に見えた手首の爪痕にほくそえみながら、静雄はおとなしく臨也の背中に腕を回した。



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