はじめてあのひとと会ったときのことは今でも鮮明に思い出せる。目に焼き付くようなピンク、そんなビビッドな色彩を見たのははじめてだった。
 自分と違って現代風にデコレートされた彼に、抱いた感情は「苦手」の一言につきる。視線を交わしてもそのピンクの瞳は笑みもせず、淡々とした表情でこちらを見ていた。
 考えが合わず愛想もあまりない。そんなひととうまくやっていけるのか。堅物な日々也にはそれは不可能に近く思えた。好意的ではなかった第一印象。それは今でもあまり変わらない。

「なるほど、それがお前がデリックを忌避する理由なのか」
「忌避までは、していないつもりですが」

 薄い青の瞳は穏やかな波の色。日々也にとって、少なくともあの目に痛いピンクよりも馴染みやすいカラーだ。彼の衣服は少し物珍しくもあるけれど、日々也と同じ古風な趣がある。
 津軽、それが日々也の先輩である彼の名前だった。

「俺は、別にデリックさんが好きとか嫌いとかそういうわけではないのです。ただ、あのひとを目の前にすると、なにを話せばいいのかわからなくなる。それが息苦しくて」
「理由はどうあれ、その結果あいつのことを避けるんだろう?」
「……避けているつもりはありません」

 はあ、と津軽はため息を吐く。まるで出来の悪い弟にほとほと困った兄のようなその響きに、日々也は少しきまりが悪くなった。確かに理由はどうあれ、日々也は他人に対して失礼な態度を取っている。外見だけで判断をしてデリックの本質を見ずに、彼と距離を取ろうとしているのだ。
 そんな自分の姿は誰の目にも未熟者と映るだろう。日々也が情けなさに肩を落とすと、津軽は困ったような笑みを浮かべて言った。

「でも、お前、サイケのことは怖がってないじゃないか」

 サイケ、デリックの兄にあたり、同じピンクをその瞳に宿す存在。彼もまたビビッドなピンクを身にまとい、日々也には全く馴染みのない音楽を歌う。けれど、そんな彼に日々也は苦手意識を感じたことがなかった。

「けれど、サイケさんは友好的ですし、とても優しそうだから」
「サイケが優しい? それは少し言葉の使い方を間違っているんじゃないかな」
「そんなことありませんよ、津軽。デリックさんと比べれば……」
「そうか? 多分勘違いしているのはお前の方だと思うよ」

 あれは不器用だけど優しい男だよ。そう告げた津軽は今日一番の穏やかな顔をしていたから、日々也はもうなにも言い返すことができなかった。
 そう、外見だけで判断しているのは日々也の方なのだ。津軽の言葉を否定できる術を彼は持っていない。
デリックの内面をあれこれ言えるほど、日々也は彼のことを知っているわけではなかった。




 遠くの方からかすかに歌声が聞こえる。近くで聞かなければそれなりに胸に響くものだ。けれど近づけば、ひどく心臓に悪い。それがデリックの歌に対する日々也の感想だった。
身形も考え方も好む音楽も、この時代のものとは思えないくらい日々也は古風だ。デリックとは違う。けれども、サイケとも違う。前者を苦手とし後者を許容するその差はなんなのだろう。日々也がそう考えながら歩いていると、聴こえていたメロディーがぴたりと止まった。

「日々也か?」

 思わずびくりと身体を震わせる。思考に集中するあまり、どうやら注意力散漫になっていたらしい。顔を上げたら、視界内にデリックが映るほどの距離まで彼に近づいていた。
 日々也は逃げ出したくなる自分を叱咤し、無理やり顔面に微笑みを貼りつける。

「デリックさん。歌の、練習ですか?」
「ああ」

 デリックはにこりともせずに答える。その応対に話そうとしていた気力は見事にそがれた。
 しばらくの間沈黙が流れる。なにも言うことができずにうつむいていると、デリックが溜め息を吐いて懐から煙草を取り出した。

「吸っていいか?」
「あ、はい!」
「悪いな」

 デリックは手慣れた様子で煙草に火をつけた。その一連の動作は自然で決まっていていっそ綺麗でもある。不思議だな、と日々也は思う。彼は自分の理解を超えたモットーを持っているけれど、そんな自分でも彼を美しいと思えるなんて。
 妙な感嘆にデリックのことをじっと見つめていると、彼は少し照れたように笑った。その顔はさっきまで話していた津軽に良く似ている。

「なにか、言いたいことでもあんのか」
「あ、いえ、特には」
「もう少し、肩の力抜けねえの?」
「……申し訳ありません」

 謝って欲しいわけじゃないんだけどね、とデリックは困ったような顔をして呟く。それから少し考えるように瞳を細めて、輝くピンクの瞳をこちらに向けてこう言った。

「歌を、聴いてくれないか」
「歌って、いつもデリックさんが歌っている歌ですか」
「いいや。お前、ああいうの嫌いだろう?」
「……えっと、嫌いでは、ないのですが」
「お前ってある意味正直だよな」

 デリックは口許をちょっとつりあげて笑う。そして、そのまま伴奏も無しに歌い始めた。
 その歌は過激ではないどころか、バラードのような、民謡のような穏やかな響きでこの空間に響き渡る。洋楽だろうか、主にクラシカルな音楽を聴く日々也の好みの範疇にあるメロディーだ。聴き馴染みのない言語の歌。残念ながら、歌詞の内容はわからない。
 歌はもちろん上手くて、聴いていて心地よい。けれど何よりも衝撃的だったのはデリックの表情。普段はクールな瞳はやわらかく笑むように細められていて、あんなに毒々しいと思っていたピンクも何故だか今は目を離すのが惜しいくらいだ。
 趣味も合わない、考え方も理解できない、あまり愛想がないから話すだけで緊張する。そんな印象はすべてさらわれたように消え去った。自分の狭い価値観なんてものともせず、彼はこうやって歩み寄ってきてくれたのだ。デリックが優しくない、など全くどの口が言ったのか。こんなに優しい男はめったにいない。

 歌が終盤に差し掛かったとき、デリックは日々也をやわらかく見つめてきた。まるで愛を告げられているみたいだと、馬鹿な考えが頭を支配する。歌が終われば、きっと夢も冷めるはずだ。せめてそれまでは、少しだけ馬鹿な男に。





 過ぎた今考えてみると、あれは一時間にも満たない瑣末な出来事だった。客観的にはそう判断できる。けれど、日々也にとっては、あの日の事はいつまでも記憶から消えない、薄れもしない鮮明なドラマだったのだ。あんなに忌避し、ある意味恐れていた男を、今度はまた別の感情で想っている。
 怯えと同じくらい頭から離れない、まるで病のような気持ち。焦がれる、だなんて、うまい言葉もあったものだ。
 あれからデリックとの接点が増えたわけではない。また別の意味で声をかけるのが恐ろしくなっていまい、以前と同じようにただ遠くから眺めているだけだった。そんな日々也を見て、津軽はまた深く溜め息を吐いた。
 遠くから聞こえる歌は、頭がくらくらするような少し過激なポピュラーソング。あの日のあの切ないような旋律はあれきり聴いていない。聴きたいな、と思う。彼の近くで、自分のためだけに歌ってほしい。もう一度だけでいいから。

「あれ、日々也君だ」

 背後からかけられた声に振り返れば、そこにはデリックの兄であるサイケがいた。彼は日々也とよく似た顔に無邪気な笑みを浮かべている。この表情が、日々也が彼に恐れを抱かなかった大きな理由かもしれない。今はもう違う。デリックが不器用ながらどんな顔で微笑むか、日々也はもう知ってしまった。

「デリック、熱心だね。またおんなじ歌を練習してる」
「そうなんですか」
「あの歌も良いけど、いい加減俺にも他のを歌ってくれればいいのに。なんであんなケチな子になっちゃったんだろう」
「ケチ?」

 日々也が首を傾げて聞き返すと、サイケはよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに不機嫌な顔をしてまくし立てた。

「デリックはね、心臓にガンガン響くようなロックも歌うけど、ちょっと切ない感じの洋楽とかも好きなんだよ。でもね、絶対歌ってくれないの。愛の歌はすきなひとにしか歌わないんだって」

 お兄ちゃんにくらい聴かせてくれたっていいのにね。そう不満そうに呟くサイケの声は、あまり頭の中に入ってこなかった。
 あの日、あのピンクの瞳に愛を告げられたような夢を見た。まるで白昼夢、自分勝手な妄想だったはずのあの予感はいつの間にかに現実になっていたのだ。
 怯えは消える。早く返事を歌いに行かなければならないのだから。







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