甘い香りがする。
 どこからだろう、だなんて考える必要はない。だって、彼がこの部屋の中に入ってくる前にはそんなにおいはしていなかったのだから。
 臨也はパソコンを操作していた手を一度止めて、こっそりと来客用のソファを見る。そこに座っている彼は、長い手足を綺麗に折りたたみ、しゃんとした姿勢で雑誌を読んでいた。
 無愛想な彼の顔に特に変わった様子は見られない。臨也は一瞬そう思って、しかしすぐにうっすらと違和感を覚えた。
 今日の彼は、どこかなまめかしい。なぜだか、そんな気がした。

 臨也が一応恋人である静雄を放って仕事をしているのは、別に薄情だからというわけではない。この男が、なんの連絡もせずに臨也の自宅に来るからいけないのだ。
 彼はいつも突然だ。もっと前もって―――少なくとも前日に言ってくれれば、臨也だってスケジュールを調整して彼との時間を作ることができる。恋人を目の前にして仕事をするなんてまるで甲斐性のないような行為は、少し完璧主義のきらいがある臨也にとって情けないの一言に尽きた。まさに今の自分がそうであると思うと、なんとも言い様のない惨めな想いになる。悪いのは臨也ではないのだと、ちゃんとわかっているのだが。

 さて、その困った恋人は、臨也の視線に気づいたのか雑誌に向けていた視線をこちらに向けてきた。少し色素が薄い彼の瞳は、怒りに染まる時以外は基本的に無感情だ。臨也はそれを見る度に、静雄は本当に自分を好いているのかと卑屈な思考に苛まれる。
 恋人同士といってもまだ日も浅く、加えて拍子抜けするくらいふたりの間には甘さの欠片も見当たらなかった。

「なんだよ。仕事終わったのか?」
「いや、まだだけど」
「じゃあ早くやった方がいいんじゃねえの?」

 告げられた言葉に少しでも怒りや拗ねたトーンが含まれていればいいのだが、現実は淡々とどうでもよさそうな響きだけがそこにあった。
 それにはさすがにため息だって吐きたくなる。臨也がそうしてつれない言葉に肩を落とした時、彼の目は自然とその味気のない言葉を発した恋人の唇に目がいった。そう、あの違和感の正体に気づいたのだ。

 チェリーピンク。少し濃いピンク色の唇は艶やかに光る。いつもと違う、甘く色っぽい口許だ。
 リップだろうか。男のくせに、そんな女みたいな色のものを塗って。そんな悪態は、けれどもただの最後の悪あがきのようなものだった。だって、男のくせにその唇は臨也が知るどの女よりも魅力的に見えたのだ。
 反射的に椅子から立ち上がる。ガタンと椅子が倒れる音がしても、ソファーに座る静雄を乱暴に押し倒しても、彼は一向に怯まない。ただ、つやつや光るさくらんぼの香りの唇が、ニィと綺麗につり上がった。

「仕事は、終わったのか?」
「知らないよ、そんなこと」

 そんなこと興味がない。例えば今の自分の行動は静雄の思惑通りなのではないかと頭の片隅ではちゃんと理解できていたけれど、そんなことどうでもいいのだ。たとえ自分が静雄の手のひらの上で踊らされていようと、彼に主導権を奪われていようと、この衝動は臨也からすました思考を根こそぎ奪い取ってしまった。
 プライドとかそんなことを考える間もなく唇は落ちる。食らったそれは予想以上に甘かった。





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