これの続き。菜由さんへ!


 今まで誰かと付き合ったことがなかったわけではない。本気だったか、ただの興味本位だったかは置いておくにしても、それなりに場数は踏んでいるつもりだった。
 けれど、どうしたことだろう。恋人をたかが自宅に招待するくらいでこんなにも緊張をするだなんて。臨也は来客用のソファーでくつろぐ静雄を見て、気づかれないように小さくため息を吐いた。
 対して、静雄は緊張のひとかけらも見せず、黙って臨也の出した紅茶を飲んでいた。その落ち着きようはまるで恋愛に慣れきった大人のように見える。以前の恋人が四木だったのだから、きっといくつもの幼稚な恋愛を積み重ねた者より、もっと質の高い濃厚な恋愛を知っているのだ。
 以前の君だったら、緊張のあまり力を入れすぎてティーカップの取っ手を壊していただろうに。そんな皮肉はどうやっても口にできなかった。

「おい」

 臨也の暗い顔を見咎めたのか、静雄は不機嫌そうな声色で話しかけてきた。恋人をはじめて家に招くというシチュエーションで確かにこんな辛気くさい表情はナンセンスだ。そうわかってはいるのだけれど、臨也にできたのは見せかけのうすっぺらい笑顔を浮かべてごまかすことくらいだった。

「……ああ、そういえば貰い物のクッキーが台所に、」

 気まずさに耐えかねてこの場から逃げようとすると、「おかまいなく」と静雄は似合わない言葉を吐いて凶悪な笑みを浮かべる。

「でも、あのクッキーは結構紅茶に合いそうだったから……」
「いーざーや君?」
「く、クッキーが嫌ならプリンもあるよ。シズちゃん好きでしょ」
「あとで貰う」

 でも今はいらない。
 そう言われてしまえば、もう台所に逃げる口実はなくて。臨也はまだ半分も減っていない静雄の紅茶を見てげんなりとした。
 気まずい沈黙が流れる。
 あまりの情けなさに静雄の顔を見ることができない。恋は駆け引きだと言うけれど、駆け引きどころかあらたまって会話をすることすらかなわないのだ。中学生だって、もとうまく事を運ぶだろう。
 静雄はこんな自分に呆れているだろうか。卑屈になればなるほど、臨也の脳裏には四木のマンションではじめて見た、四木を想う静雄の姿が思い浮かんだ。あの切ない眼差しをきっと四木は知らない。それは水面下で行われていた四木と静雄の駆け引きのひとつだったのだろう。弱みを見せず、本音を隠す。単純な彼には逆立ちをしてもできないだろうと思っていた、巧妙な駆け引きの術。

「……ねえ、シズちゃん」
「なんだよ」
「俺でよかったの」

 その言葉に静雄の目が見開いたのは一瞬のことで、気がつくと臨也の体はソファーに埋められていた。静雄の右手が臨也の首もとを痛いくらいに掴む。ギリギリと首を絞められるのにも似た感覚に息がつまった。

「手前、今なんて言った」
「なにって……」
「勘違いしてんじゃねえよ、このノミ蟲が」

 苦しいのも被害者なのもここでは臨也のはずだ。それなのに、至近距離にある静雄の瞳の方がなぜか悲しそうだった。

「手前ほんとにめんどくさいやつだな。口を開けば腹立つことしか言わねえし。さっきからうだうだうだうだなにか言いたそうな顔してよ、いい加減にしろよな」
「……うん、今回は俺が悪いかもしれない」
「今回じゃねえよ。毎回だ。いっつもそうだ。その良すぎる頭も考えもんだな」
「うん、そうかも」
「……気持ち悪い。反論しねえ謝ってばっかの手前なんて」

 そうかもしれない。けれど事実だ。
 そう思って黙って瞳を伏せる臨也に、静雄は盛大なため息を吐いた。失望、というよりむしろ呆れた色が濃い。

「そんなめんどくさい手前と俺は付き合ってる。それだけじゃだめなのか」
「それで、本当にいいの。俺はあのひとにはなれないよ」
「誰が手前に四木さんになれって言ったんだよ」
「でも、」
「あーもう黙れ」

 静雄はそう吐き捨てると、いきなり臨也の唇を奪った。色気もなにもないそのキスは、香り高いダージリンの味がかすかにする。意図せぬ小さなリップ音を残して、離れた唇を静雄は手の甲でぬぐった。

「俺はめんどくさいのは嫌だ。で、前の恋人と手を切ったのもめんどくさかったからだ。いい加減うるせえとお前とも別れんぞ」
「四木さんが、めんどくさいの?」
「めんどくせえだろ。四木さんも、俺も。暗黙の了解だなんて回りくどい真似をして、ここまでだったら許されるかなんて馬鹿みてえに臆病な概算をして。『好き』だなんて告げるのにも、理由が必要で」

 それは静雄の後悔か、もしくは四木の後悔でもあるのかもしれない。言葉の裏の裏を探って、安らかにただ愛し合うときなんかなくて。だってそれが駆け引きなのだから。

「それなのにお前はまためんどくさい。我慢するのはだめだって前ので学んだから、俺はもう我慢しねえぞ」
「……うん」
「手前が浮気したら殴って別れるし、今みたいなめんどくせえことを言ったら殴って別れる。どうだ、わかりやすいだろ」

 にやりと笑う静雄の顔が綺麗で、臨也は思わず手を伸ばす。
 するりとその頬を撫でると、静雄の好戦的な目が弱々しく動いた。涙にならなかった水分がそこにある。
 そうだ。ひたすら強いくせに、心の奥底に脆い部分を抱えている。そんな彼に臨也は惹かれたのだ。

「手前は、俺のわがままなんでも聞いてくれるんだろ?」

 うん。なんでも聞いてあげる。君のわがままなら、なんだって叶えてやる。
 約束は守るよ。その小さな呟きは掠れていたからすぐに消えたけれど、恋人の口許の緩みが伝わったことを如実に示してくれた。



駆け引きは終わり






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