まち太さんへ! 「最近ご無沙汰ね」 基本的に無駄口を叩かない秘書が、珍しくらしくないことを聞いてきた。そんな珍しい口出しに、臨也は黙ったまま彼女に視線を向ける。すぐに返事ができなかったのは、咄嗟のことに驚いてうまく対応することができなかったためだけではなく、痛いところを突かれたからでもあった。 秘書はその綺麗な顔を少し傾けて、また臨也を追い詰める。 「ああ、うまく私の言葉を理解できなかったかしら。あなたがこれほどの期間池袋に行かないだなんて珍しいものね、と疑問を投げかけたつもりなのだけれど」 「……懇切丁寧にどうも、と言いたいところだけど、それほど馬鹿じゃあないよ」 「ふうん。それじゃあ、私の言っていることを理解した上で、あなたは何も答えられなかったのね」 たとえるなら右からのパンチを避けたら左から殴られた、とでも言ったところか。 全く、優秀すぎるのも考えものだ。だが、せめて救いなのは、彼女の興味が彼女の弟にのみ注がれているという点だろう。こんな醜態、他の知り合いに見せたら、滅多にない好機と痛いほど突かれるに違いない。 臨也はため息を吐いて、デスクの椅子に脱力するように寄りかかる。それを見て、秘書は黙ってコーヒーを淹れてくれた。 注がれるミルクに眉をしかめると、秘書は「ブラックは胃に悪いのよ」と言って臨也に文句を言わせなかった。 ミルクがたっぷり入ったコーヒーは苦り切った口内にはやけに甘ったるく感じた。これはきっと、秘書なりの心遣いなのだろう。 秘書はその美しい目許をぴくりとも動かさずに、淡々とした様子で言葉を発した。 「別にあなたが池袋に行こうが行くまいがあなたの自由だし、私は特にそのことに興味はないわ。けれど、日に日にその鬱屈とした空気が濃くなっていくのはちょっと迷惑なんだけれど」 「波江さんってほんと、優しいのか優しくないのかわかんないよねぇ……」 「私に優しさを求めるだなんて、それこそお門違いよ」 「ははは、そうだね」 臨也は薄く笑った後、その顔を少しだけ歪める。 こんなはずじゃなかったのになぁ。 そう呟いた声はまるで弱音のように悲壮感を帯びて広い室内に響いたが、優秀な秘書はそれを聞かないふりをして黙っていてくれた。 冬はいけない。臨也は久々の池袋で、ぼんやりとそう思った。 本当はここには来たくなかった。せめて春が来るまでは、あの新宿の事務所に引きこもっていたかった。だが、重要な取引先の人間に呼び出されれば赴かないわけにはいかず、結局臨也は分厚いコートを纏って池袋の地に降り立ったのだ。 それにしても、笑ってしまう。池袋の無秩序なひとの波を気に入り、好んで訪れていた自分に、まさかこの街に近寄りたくないと思うような日が来ようとは。それらは全て、あの男とこの季節が悪いのだ。 少なくとも、夏はまだ大丈夫だった。秋も、まだ残暑が残るうちは。けれど、今年の冬、臨也はあの男を見た瞬間――何故だか彼の手が気になって気になって仕方がなくなった。人肌恋しい季節だからだろうか、臨也はあの男の、平和島静雄の手の温度を知りたくてたまらなくなったのだ。 いつも暴力を生み出す静雄の手は、触れたら冷たいのだろうか。手袋もせずに外回りの仕事をしているのだ、きっと凍えるように冷たいに違いない。けれど、手を握って暖めてやったら、彼の暖かな温度を感じることができるかもしれない。その温度を、どうにかして触れて、感じてみたい。 そこまで考えて、臨也はいつも愕然とする。こんな甘ったるい考えは、天敵に向けるべきものではない。つまり、臨也は静雄に憎しみを向けていないどころか、また別の重い感情を向けているのだ。 そんな馬鹿げたことがあるか! そう思って臨也が池袋と距離を置くようになってから早数ヶ月、あの他人に無関心な秘書がいくらかの優しさを恵んでくれるほど臨也は暗く澱んでいたらしい。彼女の指摘は、もはや臨也に否定の余地を与えてくれなかった。程度はどうであれ、臨也は静雄を好いている。その事実を覆すことは、きっともうできない。 冬の寒さは人恋しさか。池袋に足を踏み入れた瞬間、臨也はやばいと思った。こんな状態で静雄と会ったら、きっと自分は、 「臨也くんよぉ……手前池袋でなにしてんだぁ?」 背後から久しぶりにドスのきいた声を聞いた。 都合の悪いときに現れる静雄に、臨也はいつもいつも辟易する。だが、今日はあまり気にならない。 それに先行する感情があるからだ。 「池袋に来んなって、何回も言ったよなぁ?」 静雄は既に標識を手にしている。こんな寒い中、そんな無機物を手にして大丈夫なのだろうか。普通のひとなら手を切ってしまいそうだ。そんなことを考えながらも、その手に触れられている標識に燻るような嫉妬を覚えた。 対して、静雄は黙ったままの臨也を不審に思ったのか、困惑したような瞳をこちらに寄越してくる。 「何だよ手前、ついにおかしくなったのかよ。……最近、池袋にも来ねえしよ」 どこか拗ねたように響く声を聞いて、ああやっぱり池袋にくるべきではなかったと臨也は再度後悔をする。理性もプライドもどうでもいいと思ってしまうくらいにドロドロに溶かされて、俺はもう自分に歯止めをかけることができない。人目も気にせず、ただ自分に正直に手が伸びる。 「ね、シズちゃん。君の手に触れても良いかな」 「は、」 呆ける静雄を無視して、臨也は彼に近づいていく。臨也の真剣な顔に恐れをなしたのか、静雄は一歩一歩と後退する。が、その背中がビルの外壁にぶつかってしまったら最後、もう逃げ場はなかった。 「お、おいっ!」と声を張り上げて慌てる静雄と、遠巻きからこちらを見ている野次馬。それらを全く構うことなく、臨也は静雄を壁に追い詰める。至近距離で見る天敵の顔は、怒りと焦りがごちゃまぜな、臨也にちっとも優しくない表情をしていた。 随分嫌われたものだ。臨也は苦笑しながらも、自分の欲望に忠実にずっと触れたくてたまらなかった静雄の手を無遠慮に握る。そして、目を見開いた。 こんな寒い中、手袋もせず、静雄は外回りの仕事をしている。少し赤みを帯びた頬や鼻は、寒さがゆえだろう。 それなのに、今臨也の手中にあるその手は、なぜだかとても熱かった。 |