ギルが鴉と契約する以前の話 一年が終わり、また春が来る。春が過ぎて、夏も過ぎて、その後にはまた冬の訪れ。ギルバートだってもうわかっているだろう。暖かい春が来ようとも、主人が帰ってくるとは限らない、と。 しかし、春とは目にも鮮やかで、ひどくわかりやすい目印である。いつ帰ってくるとはわからない、という底なし沼のような恐怖の中、きっとギルバートは春に希望を見出だしたのだ。春という華やかで、暖かい季節に。 冬が来ると、ギルバートはよく窓の外を眺めるようになった。まるで親の帰りを待つ子のように。冷え冷えとした冬の枯れ木の間から、愛しい存在が歩いて来るのをひたすら待っているかのように。暖かな春さえ来れば、厳しい冬さえ終われば―――大切な主人は帰ってくると頑なに信じて。 「ギルバート君、寒いですヨ」 こんこんと降り積もる白い雪が窓の外に見える。外面は美しく見えるそれは、その実残酷な性を持っているとブレイクは知っていた。レインズワースの屋敷に身を置いたばかりの頃、絶望に暮れるブレイクに、雪は冷たくのしかかってきた。 それを融かしたのはやはりレインズワースの暖かいひとたちだろう。だが、ギルバートは融かされるつもりはないらしい。頑なに闇に自らを置くその姿勢に、痛々しさと一抹の不安が過った。 「風邪を引きますヨ?」 ギルバートは黙って窓を閉める。 貴族の自室としては簡素なギルバートの部屋。暖かみが感じられない、安らぎを目的としていない空間だ。まあ、この屋敷に彼の味方はほとんどいないのだから、端からここで安心するつもりがないのかもしれないが。 「……何の用だ」 ギルバートはいつもより低い声で、ブレイクの訪問の意図を問う。目の下には、うっすらと隈があった。 「仕事の話をしにきたんですが、どうやら寝不足みたいですネェ。こんな若様に仕事だなんてできませんカ」 からかうようにブレイクがそう言うと、ギルバートはバツが悪そうに顔を歪める。はあ、とひとつため息を吐くと、乾いた声でこう呟いた。 「……夢を見るんだ」 「この歳になって悪夢で眠れないなんて、とんだヘタレですネェ」 「悪夢じゃない。幸せな夢なんだよ」 「はあ」 それのどこが悪いと言うのだろう。良い夢なら、むしろ、目覚めるのが嫌になるのではないか。眠れない、とは対極に位置しているように思える。 ギルバートは瞳を細めて、眠気をいとうように首を振る。その虚ろな瞳には疲れが滲み出ていた。 「大丈夫だ。もうすぐ冬が終わる。そうすれば、もう、馬鹿な幻想は抱かなくなる」 馬鹿な幻想。ああ、そういうことか。 ギルバートは怖いのだ。幸せな夢を見て、その夢から醒めてしまうことが。夢と現実の落差に絶望をしたくないのだろう。 春が来たら主人が帰ってきてくれる。そんなお伽噺みたいな出来事を盲信できる年頃はもう過ぎたのだ。主人を取り戻したくば、ギルバートが動くしかない。 だが、それでも、彼はまだ大人になりきれていない。夢を捨てきれていない。希望のような光のような彼の主人が、春になったらギルバートに笑いかけてくれる。その幻想は、たしかに残酷なほどに幸福だ。 ブレイクはギルバートに手を伸ばしかけて、すぐにそれを下ろした。 今の彼には慰めも暖かさも本当の幸せにはならない。ブレイクから施されるというのなら尚更そうだ。だから、自分は自分の方法で彼に向き合えばいい。 「ねえ、ギルバート君」 「何だ?」 こちらを見たギルバートの無愛想な顔は、すぐに床に沈む。寝不足でしかも無防備だった彼のみぞうちに一発殴り込み、そして彼を気絶させるのは思ったより容易だった。 「全く、そんな調子で大丈夫なんですかネェ」 ナイトレイの所有する鴉との契約をし、ギルバートの主人を取り戻す。そんな彼の目的は、こんなザマで果たせるのだろうか。本当に夢を叶えたいというのなら、自らの体や気持ちのこともきちんと考えてやらなければならない。 そこまで考えて、ブレイクはハッと一笑する。それは、ブレイクに言えることではない。自身だって身を犠牲にして目的を達成しようとしているのだから。 ブレイクは床に転がったギルバートの体を引きずり、彼の寝台の上に乗せる。疲労の色が濃い寝顔は、どうしてか、初めて出会った雨の中で見た幼い顔に重なって目に映った。 やはり自分は暖める側ではなく暖められる側なのだ。ゆえに、ブレイクにはギルバートの氷を融かすことはできない。だから、その代わりに少しだけ気を紛らわせてやろう。夢から醒めた彼が絶望する前に、殴られたことについて怒ればいい。 恐怖も痛みも消すことはできない効能の短い魔法を、せめて本物の春が帰ってくるまでは、君に。 春を待つ人 |