!長編「終わりまでの数え歌」の続編ですが、准教授折原先生×大学生平和島君という予備知識があれば大丈夫かと。
鈴山さんに捧げます。




折原臨也は腹が立つくらい完成された大人であると静雄は思う。まだまだガキな静雄を相手にすると、彼は必ず優位に立つ。まるで自分が臨也の思惑通りに動いているみたいで、彼の聡明さに苛立つこともしばしばだ。
だが、多分それ以上に、静雄は臨也の聡明さと大人なところに救われているのだろう。短気な静雄はすぐにキレるし、時にはそれを通り越して不安になる。臨也はそんな静雄を軽くいなし、静雄の負の感情をあやふやにしてしまう。もちろん、軽く流された直後は臨也の大人な対応に腹が立つのだが、いざ怒りが冷めてしまうと静雄はこっそりと心中感謝をするのだ。
臨也が大人だから――自分と違って彼が短気じゃないからこそ――ふたりの恋人関係は今までに大きな破綻も小さな綻びもなく、順調に進んでいるのだろうから。

だから、その臨也の平静を失ったような怒声を耳にした時、静雄はすぐさま自分の聞き間違いを疑った。

いつもと変わらない平日の午後。しいて言うなら、静雄はこの後バイトもなく、臨也はこの後ゼミがない、そんな日。
そういう日は大抵、静雄は臨也の家に泊まりに行く。彼の車に乗って、一緒に彼の家に帰るのだ。
そのために、静雄は授業が終わると臨也の研究室に向かった。おそらく、彼ももう仕事を終え、静雄を待ちわびているだろう。そう思うと自然と足の進みも速くなった。
変わったことではない。むしろそれは毎週のように繰り広げられている日常的なこと。けれども、今日はその日常を乱すように、その声が耳に響いた。

「――いい加減にしろっ!」

臨也の研究室の扉に手をかけたその時、まるで怒りのかたまりのような怒声がした。
背筋が凍るような心地がする。
静雄は臨也の怒鳴り声を初めて聞いた。あれほどに怒りに理性を失った彼の声をこの耳にしたなんて全く信じられない。静雄がなにを言おうと飄々とした様子で笑っていた彼が、あんな、憤りに叫ぶところなんて。
あまりの動揺に、静雄は持っていた荷物を床に落としてしまう。まずい、と思った時には、すでに扉の向こう側の人間が反応していた。

「……静雄君?」

ああもう、最悪だ。
静雄はうつむいて、自分の失態を心中で嘆く。これじゃあもう、さっきの怒鳴り声を聞かなかったふりはできないだろう。
おそるおそる扉を開けて、静雄は臨也の研究室に入る。いつも通りの整然とした室内といつもと違ってバツが悪そうに苦笑する臨也がそこには在った。
彼の手には、携帯電話が固く握られていた。









初めて臨也の車に乗せてもらって一緒に彼の家へ帰った日、静雄はあまりの緊張にずっとうつむいていた覚えがある。その姿を見て、臨也は「別に取って食ったりはしないから」と楽しそうに笑っていた。今思えば、それは嘘だったのだけれど。
今の状況はあの日とよく似ていた。違う点を挙げれば、あの日より今の方が遥かに車内にぎこちない空気が流れているところだろう。臨也も静雄も無言のまま、ただ車だけが前へ前へと前進する。
静雄は助手席からちらりと臨也の横顔を見る。彼の表情は固い。眼鏡の奥にある瞳はぎこちない色をしていた。

そういえば、「いい加減にしろ」とは、果たして誰に対する言葉だったのだろう? 静雄は眉間にしわを寄せ、頭を捻る。今まで臨也の怒声に怯んでいて深く考えていなかったが、普段はやわらかな彼の言葉遣いがあのように乱れるのもまた珍しい。誰か知己、もっと言えば電話の相手は友人だったのだろうか。それとも、丁寧な言葉遣いが乱れるほど怒っていたのかもしれない。
静雄が考えに没頭していると、急に車が動きを止めた。驚いて顔を上げると、見覚えのある駐車場。どうやら、いつのまにかに臨也のマンションに着いたらしい。
臨也は自分の駐車スペースに車を入れ、エンジンを切る。そうして少しの沈黙の後、おもむろに口を開いた。

「……さっきはごめん。驚いたよね」

その声を聞いて、静雄はハッとする。さっきの怒鳴り声と同様に、静雄は臨也の今のような声も聞いたことがなかった。こんな―――弱々しい、まるで子供みたいな声なんて。

「ちょっと、ちょっとだけね、痛いところを突かれちゃって。柄にもなく頭に血が上っちゃったんだ」

そんな悲痛な顔を見たら、ちょっとだなんて嘘だと容易に知れる。そして、自分の大きな思い違いにも思い知った。
臨也は静雄より年上で、頭も良い。精神的に成熟している。しかし、それが確かだとしても、彼に弱いところがないと断言することはできない。
それなのに、自分は臨也に甘えきって、一体彼のなにを見てきたのだろう。聞き慣れない怒鳴り声を否定する前に、それほどまでに不安定になった彼を支えるのが先決にきまっている。
静雄は臨也の頭を撫でる。そして、きょとんとする臨也に、ふわりと笑いかけた。

「先生、泣かないでください」
「……別に、泣いてないよ」
「そりゃ、よかった」

拗ねたような臨也の顔がなんだか子供っぽくて、静雄は堪えきれず笑ってしまう。するとすぐさま「なに笑ってるの」と彼は不機嫌そうに言った。

「だって、先生にもそんな子供みたいなところがあるなんて知らなかったから」
「……幻滅でもした?」
「今日の先生は本当におかしい」

静雄は臨也を撫でていた手を、彼の頬へと移動させる。
ふたりの視線が交差した。

「いつも自信満々なあなたが言うように、俺はどんなあなたも好きで好きでたまらない。この熱は、一向に冷めそうにもないんですよ」

いつもはあなたが俺の不安を取り去ってくれるから、俺もあなたの弱みを愛したい。あなたがなにを恐れているかは知らないけど、少なくとも俺はあなたを見ているから。

静雄の言葉に、臨也は「君は馬鹿だね」と笑った。臨也の頬には雨だれのような涙が一筋流れていたけれど、それでも彼はとても綺麗に微笑んだのだ。









折原臨也は腹が立つくらい完成された大人であると、臨也が愛する青年は思っていることだろう。
そんなことはないと、臨也もそして電話の相手も知っている。臨也はそんな大層な人間ではないと。

「君が静雄をからかうのも、それが原因なんでしょ?」

電話の相手は臨也と静雄の知己。免許も持たずに患者にメスを振るう闇医者だ。
「……なんのことかな」

臨也は自分の声に不機嫌さを滲ませてしまったことを深く後悔した。
自分より年下のこの友人は、こちらの都合も考えずにズバズバと思ったことを口にする。

「だから、君が静雄の優位に立って彼を翻弄するのはさ、そうしないと君が不安だからだろう?」
「なにを根拠に、そんな」

痛いところを突かれるとは、まさにこういうことを言うのだろう。電話の相手は臨也の言葉を無視して、更に言葉を進めた。

「まだまだ若い静雄にはたくさんの選択肢があって、その中には君に背を向けるという選択もある」
「……うるさい」
「君は怖いんだろう? そうやって静雄を自らの手のひらの上に置いておかないと、不安で、不安で」
「いい加減にしろっ!」

ぶつりと通話が切れた携帯電話を見て、電話の相手である新羅はため息を吐いた。
もっと臨也は静雄に甘えたらいいのに。いくらなんでもかっこつけすぎだ。
静雄が恋人の弱いところを軽蔑するなんてわけはないだろうに。むしろ、自分の弱さがゆえに臨也の弱さも愛すだろう。そうやって支え合う未来こそが、ふたりにとっては最良の選択肢に思えるのだけれど。

まあ、それは単なる僕の主観的な考えでしかないか。新羅はそう思って、思考を愛する彼女の方にシフトした。




際限のない恋



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