静雄との付き合いは長いが、彼の家を訪れたのは初めてのことだった。 思ったよりも味気ない室内には、うっすらと彼の気配が漂う。通された居間のテーブルの上には小さな硝子の瓶がいくつか置かれていた。おそらく、中身は酒だろう。 もしかして、バーテンダーだったころに覚えた酒でも振る舞ってくれるのだろうか。臨也がそう思ってひとつ瓶を手に取ると、静雄は「待て」と言ってその瓶を奪い取る。 静雄は少し怒ったような、真剣な瞳をしていた。 それを見て、臨也は言いようもない焦りを感じる。この男のまっすぐな目は、いつも臨也を窮地に追い込む。いくらこちらが優勢でも、彼は容易くそれを覆すのだ。 「……なに? 酒の前につまみでも出してくれるの?」 臨也は緊張した場の空気を紛らわそうとわざと明るい声を出したが、静雄は臨也に向けた眼差しをぴくりとも動かさない。 「つまみじゃないな、もっと大事なもんだ」 「へえ……、シズちゃんの手料理か、興味深いね。意外だな、君も料理なんてするんだ。力加減とかできるの? ああ、ちなみに得意料理とかは―――、」 「なあ、臨也君よぉ」 静雄はゆっくりと、落ち着いた調子でそう言った。延々と喋る臨也に苛立つこともなく、むしろそれをたしなめるように。 「今日はな、手前とちゃんと話すために手前を呼んだんだ。だから、酒は話が終わるまでお預けだ」 「話なら、酒を飲んでもできるだろ?」 「酔っ払いと話すつもりはない」 静雄は淡々と言って、酒瓶が乗ったテーブルを部屋の隅に押しやった。 失敗した、と臨也は心中で舌打ちする。何故、今日静雄の家に招かれたのかと訝しく思っていたが、どうやら自分は罠に嵌められたようだ。ここは相手のテリトリーだから、臨也は酒に逃げることも勝手に退室することも難しい。加えて、得意の話術で話をはぐらかすには、今日の静雄は冷静すぎた。 じわじわと焦燥を感じる中、静雄は沈黙を破ってこう尋ねてきた。 「なあ、なんでお前は俺と友達になろうと思ったんだ?」 臨也はぎくりとするが、何とかそれを顔には出さずに済んだ。 「最初に言ったでしょ。俺は君みたいなタイプの人間と親交を持って、観察したいって」 「それだけか?」 「それ以外になにがあるって言うのかな。俺が、シズちゃんの友達になりたがる理由が」 静雄はふうんと納得しているのかしていないのかよくわからない返事をする。その飄々とした態度に嫌な予感がしたので、臨也は「話がこれだけならもう飲もう」と言って、机の上にあるグラスに手を伸ばした。 「まあ待てよ」 しかし、掴み取る前にそのグラスは静雄の手によって取り上げられた。グラスを掴み損なった臨也の身体は前傾に傾き、気がつけば目と鼻の先に静雄の顔がある。息を吐けば届きそうなくらいの近距離で、静雄はニィと口許を吊り上げて笑った。 「お前、俺のことが好きだろ?」 こんなに至近距離で、静雄にまっすぐ見据えられたのははじめてかもしれない。近寄れば近距離戦に強い彼の鉄拳を食らってしまうから、臨也はいつも静雄と一定の距離を保っていた。 そうだ、離れなければ、捕まってしまう。そして、もう、捕まってしまったら殴られるだけでは済まされないのだ。むしろ、ひとおもいに殺して欲しいだなんて思うくらいにギリギリな状況が待ち受けていのだろう。 「ば、かじゃないの」 喉奥から絞り出した声は、まるで生まれたての声のように震えている。 「俺は男で君も男だ。俺は男なんて好きじゃない」 「おかしいなぁ、臨也君。手前は人間と名のつくものはことごとく愛しているんじゃなかったのか?」 「……茶化すな。それとこれとは違う話だ。仮にそうだとしても、俺が君を愛すだなんてあり得ない。まるで悪夢だね」 臨也はそう言って、乱暴に静雄の肩を突き放した。広がる静雄との距離に、安堵のため息を吐く。 ああ、やっぱり新羅の言った通りだった。俺はこの男に近づいてはならなかったのだ。ひとの全てを掻き乱す、まるで化け物のような人間に。 静雄はそんな臨也に追い打ちをかけるように、更に言葉を続ける。 「それなら、手前はどうしてそんなに動揺しているんだ?」 「動揺なんて……」 「ハッ、それで冷静だとでもほざく気か? 俺の言葉に軽口も叩かない、嫌みも皮肉も言わない、嘲笑も浮かべない今の手前が?」 背中に嫌な汗が滲み出た。喉はカラカラで、無意識に目が酒瓶にいく。こくり、とひとつ喉を鳴らせば、静雄はにこりと優しげに笑う。 「本当のことを話したら、たんと飲ませてやるよ」 静雄はグラスにこぽこぽと透明の液体を注いだ。並々と注がれる酒に、しかし臨也の視線は向けられない。ついさっきまで欲してたまらなかった酒なんて、もう臨也の眼中にはなかった。 楽しむように笑う静雄の顔は、臨也がこっそりと焦がれていた、あの笑顔だった。臨也には向けられることのない、あの特別な微笑み。 ああ、喉が渇いてしかたがない。 気がついたら、もう終わっていた。グラスが割れる音と、手の中にある骨張った手首の感触。閉じていた瞼を開けば、そこには驚いたように見開かれた色素の薄い瞳があった。 唇に暖かいなにか。羽交い締めにした静雄の両手は、驚愕のためかひどく無防備だった。靴下越しに感じるのは、静雄の両手首を掴み取った際に落とした、グラスの中のウイスキーか。 渇いていた喉を満たすように相手の唇を貪った。ぴちゃ、と僅かに聞こえる水音と静雄の口から零れる小さな喘ぎに身体が熱くなる。足りない、まだまだ足りない。だって、これは、ずっと待ち望んでいた瞬間だったのだ。 その至福の時間に終点を打ったのは、臨也の携帯の着信音だった。 ひどく現実染みた音に、臨也はハッと我に返る。そして、自分が仕出かした過ちにさあっと顔を青ざめた。 臨也は静雄の身体を思いっきり突き飛ばす。無防備な静雄の体は簡単に離れて、そのまま背中を床に打ち付ける。突然のことで痛みも感じないのかただただきょとんとする静雄に、臨也は笑いが込み上げてきた。いや、もう笑うしかなかった。 「は、はは」 「臨也?」 「あははははははははっ、おかしいよ、ほんと。あは、ははは」 臨也は笑いながら、そっと割れたグラスの破片を手に取った。それをぎゅっと握り締めればズキンと鈍い痛みを感じる。甘い考えは、もう霧散した。 「ねえ、ねえ、まだ気づかないの? 俺が君と友達になったわけ。そんなの、仲良くなってから思いっきり捨ててやろうって魂胆に決まってるじゃないか。それをなにを勘違いしたのか、俺が君を好きだって? ははははははっ」 「…………」 「あまりにもおかしくて滑稽で仕方なかったから、優しい俺はその妄想に付き合ってあげたんだよ。ねえ、俺にキスされて、それから馬鹿にされて、傷ついた? ねえ、傷ついたの?」 「臨也、俺は」 「黙れっ」 臨也は静雄をねめつける。静雄の瞳の中に映る自分の情けない顔に、内心思いっきり自嘲しながら。 手のひらから流れる血液が現実を教えてくれているうちに、全てを終わらせなければならない。甘い考えを振り払って、声に嘘を上乗せて。 「もう飽きちゃった。だから、友達ごっこはもうおしまいだ」 揺らめく静雄の瞳に背を向けて、玄関へと向かう。 認めてはいけない、だって認めたら、これまでの自分の全てが否定される。今まで構築してきた折原臨也という人間を、静雄との確執を。懐古は愚かだと言われても、臨也は未来に希望を持てるほど楽観主義者じゃない。 ああ、本当に、どうして君は天敵のままでいてくれなかったのだ。俺は憎しみを持続させる方法は知っていても、愛を築き上げていく方法なんて知らないというのに。 玄関から立ち去る直前に、静雄の声を聞いた気がした。その言葉の意味を理解して、臨也は口許に歪んだ笑みを浮かべる。 「逃げるのか、だなんて、今更だろう?」 俺は君と初めて会った時から、今までずっと逃げていたのだから。 |