自分がいつから静雄にこのような想いを抱くようになったのか、その詳しい時期はよくわからない。もしかしたら、初めて彼を目にした瞬間かもしれないし、彼の人となりを知り始めた頃かもしれない。 どちらにせよ、その想いの存在に頭の片隅で薄々勘づいてきたのは、静雄と出会ってからしばらく経った後だった。無論、その時点で臨也と静雄は疑いようもなく『天敵』であったから、臨也はその想いを知らない振りをした。今更後戻りなんてできないことを重々承知していたからだ。 臨也はグラスに酒を注ぎながら、ふと思う。じゃあ、なんで今、俺は静雄と友達でいるのだろう?と。だってそうじゃないか、昔の臨也が静雄とつきあうどころか親しくすることすら不可能だと感じたように、あの静雄が憎い臨也に心を許すわけがない。 静雄は理屈なんてまどろっこしいものが嫌いな男だ。それにもかかわらず、今回彼は臨也の説得に応じた。今まで一度だって臨也の口車に乗ったことがない、あの自分の思い通りにいかない男が。 「臨也?」 声をかけられてハッとする。声のした方向を見ると、怪訝そうな静雄の顔。 彼の顔を見て、臨也はぼんやりとしていた思考を現実に戻す。今日は週末の金曜日。今日もまた、静雄と酒を飲んでいたのだ。臨也の手の中のグラスには、アルコール度数の高めなウイスキーのロックが入っている。このぼやけた思考の原因だ。 「もう酔いが回ったか?」 静雄はからかうようにそう尋ねてくる。それにムッとしながらも、臨也は内心少しだけ感心していた。静雄と酒を飲むようになってから気づいたことだが、彼は酒の飲み方が上手い。別段酒に強いわけではないのに、上手な飲み方を知っているからか、臨也はこの男が酔って取り乱すところを一度も見たことがなかった。 おそらく、それは彼がバーテンダーとして働いていた頃に身につけたものなのだろう。臨也はそう思って、また首を傾げる。仕事を失う原因となった男を、何故こんなにも容易く「友達」にしてくれたのだろうか。それだけでなく、臨也は静雄に数えきれないほど酷いことをしてきたのだ。そのひとつひとつを挙げていけばキリがない。 臨也は静雄を見る。最近の彼は、笑顔こそ滅多に見せないが、臨也のそばにいても眉間にしわを寄せない。暴言も吐かないし、殴りかかってもこない。その姿は、彼が門田など旧知と共にいる様子と近い気がする。その事実に胸がざわりと騒いだ。 その焦燥を打ち消すように酒瓶を掴めば、ひょいと静雄の手がそれを奪う。少しキツイ目線は、どうやら飲みすぎを咎めているらしい。くらりと僅かな目眩に、確かに飲みすぎかもしれないと臨也は口を歪めて笑った。 「ねえ、シズちゃん。どうして俺との友人関係を許容したの?」 酔った勢いでそう問いかければ、静雄は少し驚いた顔をした。 しかし、次の瞬間、彼は酒でくつろいでいた雰囲気を厳しいものに変える。ビリビリと背筋が震える、少し前までお馴染みであった空気だ。 「普通の人間になりたかったから」 「え?」 「俺は……もし俺がお前を許せたら、普通の人間になれるかもしれないって思ったから」 それは、ある意味臨也が説得に使った言葉と似ている。確かに静雄は臨也を許容できれば、他のどんな人間にも感情を乱されることはないだろう。精神が安定していれば、彼の馬鹿力は発揮されない。つまり、静雄が言う「普通の人間」になれるかもしれない。 それは予想範囲内だった。静雄の力は彼の忍耐力が強ければ抑えることができる。そうやって、彼は着実に自分の力のコントロールを身に付けつつあった。 だが、臨也はそのことを少し甘く見ていたのかもしれない。静雄が普通の生活を送ることになれば、彼はたくさんの「本当の友人」を持つこととなるだろう。そうしたら、臨也はもう特別ではない。数多くいる友人の中のひとりでしかないのだ。 頭を鈍器で殴打されたような衝撃と、この前秘書に言われた言葉が頭の中をがんがん響く。 何故、俺は静雄との関係を「友達」なんかで妥協をしているのだろう。正直に想いを口にしてしまえばいいのに。そうして彼を自分のものにしてしまえばいいのだ。 臨也は静雄の肩を掴む。静雄はなにも言わない。ただ真剣な顔をして臨也の出方を窺っている。 その意志の強い静雄の瞳が、ずっとずっと欲しくてたまらなかった。彼の目をこちらに向けようと、幾度も幾度も彼を怒らせた。こちらを見てくれるのなら、どんな眼差しでも構わない。そう思っていたけれど、彼が数少ない人間に向ける優しげな眼差しにもこっそり焦がれていた。あんな柔らかい瞳で見つめられたら、言いたいことはたくさんあるのに、きっともう何も言えなくなってしまうのだろう。 「シズちゃん」 君の穏やかな視線を独占したい。背筋が冷たくなるくらいのキツイ眼差しも、時折欲しくなる。俺を見た瞬間に色を変える君の目をずっと眺めていたいんだ。だから、俺は。 「シズちゃん、俺はね」 君を自分のものにしたいんだ。君が、好きだから。 その言葉はいつになっても口の中から出てこなかった。ただ沈黙が続き、やけに周囲の音が耳に騒がしく聞こえる。例えば時計の規則正しい音だとか、エアコンの起動音だとか、普段は気にならない忘れられた音。それらを耳にしながら、臨也は顔を歪めて小さく笑い声を漏らす。ああ、なんて、滑稽なのだろう。 妥協だとか偉そうなことを言ったものだ。結局、臨也はただ怖いだけなのだ。静雄に気持ちを拒まれることも、長年培ってきた「天敵」という間柄を無に返すことも。 だけど、天敵関係に終止符を打とうとした静雄に離れていって欲しくなくて、無理矢理「友達」なんかになった。その時点でもうおかしいのだ。静雄に近づけば臨也は自分の想いを抑えきれなくなるし、「天敵」という特別な関係に酔っていた臨也は「友達」などではもはや満足できない。だからといって、全てのわだかまりを捨て去って彼に「好きだ」と言うには、自信も勇気も幾分も足りない。 前にも後ろにも進めない。だから、どこにもいかないでよと静雄の足を引っ張る。そんな自分が、滑稽で仕方なかった。 「そろそろお開きにしようか。俺、ちょっと飲みすぎたみたいだから、もう眠くなっちゃった」 臨也が曇りない笑顔を顔に貼り付けて言えば、静雄は久しぶりに眉間にしわを寄せた。だが、その顔のわりに「わかった」とすぐ頷き、さっさと玄関まで歩いて行ってしまう。その姿は何だか不機嫌そうで、もしかして飲み足りなかったのかなと臨也は少しだけ申し訳なく思った。 静雄は玄関から出ていく直前、ぶっきらぼうにこう言った。 「来週は、うちに来い」 その言葉の意味を理解する前に、静雄は立ち去ってしまった。 その言葉の意味がわかっても、彼の意図はまるで分らなかった。 それにもかかわらず、臨也は静雄のその言葉に、何かが崩れる音を聞いたような気がしたのだった。 |