認められない感情がある。見ないようにと蓋をして、その感情との対峙を避けてきた。それを認めることは自分の信条を叩き割るようなものであるし、またこれまでの彼との時間を否定するようなものでもある。
だから臨也は知らん顔をする。積み上げてきたものを崩す勇気も、それを新たに組み立てる気力も持っていないのだ。ならば、壊さないようにと壊れかけの関係をひたすら守っていくしかない。

「守るだけなら、緩やかな崩壊は止まらないよ」

いつだったか、新羅にそう言われたことがある。ひびが入ったものに更なるひびを防ぐように万全の保存を施しても、そこにある傷は消えない。些細な衝撃で簡単に砕け散ってしまうだろう、と。
そう、だから多少の修復は不可欠なのだ。それが「友達」だ。
今のところ、修復はうまく進んでいる。静雄は臨也の家で酒を飲むのを幾分か気に入ったようだし、臨也も現状に満足している。静雄との命をかけた喧嘩も、静かに飲み交わす酒盛りも、種類は違えど臨也が求める静雄との繋がりに他ならない。
ならば、これ以上なにを望むと言うのだろう? 望みのないことを望んでも不毛でしかない。高みを望んで全てを失うくらいなら、その原因となるこの気持ちはなかったことにしてしまった方がいい。

だから、臨也は蓋をする。










猛暑のまとわりつくような熱気をものともせず、臨也のデスクは涼しく快適だ。そんな臨也とは異なり、おそらく静雄はこの猛暑の中汗をかきながら働いているのだろう。暑さに辟易して顔を歪める静雄を思い浮かべ、臨也は思わずくすりと笑ってしまった。

「顔が緩んでいるわよ」

凛とした声にコンピューターから顔を上げれば、美しい部下がいつの間にかに仕事場に現れていた。

「波江さん。いつからいたの?」
「今来たところよ。あいにくあなたは『お友達』のことで頭がいっぱいで、私の気配に気づかなかったみたいだけど」
「ほんと、波江さんって辛辣だよね。それで、頼んだものは?」

促すように片手を伸ばせば、有能な秘書は黙って紙袋を差し出してきた。
ずしりと重たい袋の中には、二本のワイン瓶が入っている。中身はどちらも白だ。前の酒盛りで、静雄が好きだと言った色のワイン。

「ありがとね」
「それ、見つけるの大変だったのよ」
「わかっているよ。特別手当を出しとくから」
「…………」

上機嫌な臨也を見て、波江は眉をひそめ、「信じられないわ」と吐き捨てるように言った。臨也はその言葉を咎めるように視線を送るが、彼女は口をつぐむことなく更に言葉を進める。

「あなた、ちょっと鏡の前で自分の顔を見てみなさいよ。情けないほど顔が緩んでいる」
「何が言いたいの?」
「そんな今日が楽しみで楽しみで仕方がないって顔をしているくせに、まだ言い張るつもり? 平和島静雄はあなたにとって『友達』でしかないと」

淡々と遠慮なく投げ掛けられる言葉に、臨也は心中で嘆息した。聡明なこの女にごまかしは通用しないだろう。
それに彼女なら、新羅と違って静雄から遠いところにいる。臨也が本音を漏らしても、彼女はきっとなにもしない。そう思ったら、少しだけ油断した。

「……まあ、君が言いたいことはわかるよ。けれど、なにかを得るには妥協が必要だと思わない?」
「妥協?」
「君だってさ、弟の恋人になれなくても別のポジションで関わっていられればいいでしょ? きょうだいという関係だけでも何もないよりマシだ。俺は俺で、静雄との関係を妥協しているつもりだよ」

それが臨也の信念だ。関係性などなんでも構わない。ただ静雄がより臨也に目を向け、執着してくれるのなら、天敵だろうと友人だろうとそんなことは些事でしかないのだ。
しかし、波江は臨也の言葉を聞いて、珍しく口許を歪めて笑う。ハッと漏れた笑い声は失笑だろうか。
それとも、自嘲か。

「あなたはまるでわかっていないわね。妥協なんて、すぐに後悔に変わる」
「なんで、そう言える?」
「本気であればあるほど、じきに自分の妥協したポジションに満足できなくなる。人間が欲深い生き物だなんて、あなたがいつも言っていることじゃない」

じわりと背筋に嫌な汗をかく。聡明な女の言葉は、臨也に反論を許さない。それでも、表面上はポーカーフェイスを保ったつもりだったが、そんな臨也を波江は一笑して、言った。


「愛を抑制するなんて、不可能よ」










転がったらもう止まらない石のように、気がつけばどんどんスピードを上げて、最後にはどこかに激突する。いくら足掻いても結末は変わらない。臨也と静雄の「友達」という関係も、いつか粉々に壊れてしまうのだろう。
そうしたら、その後、臨也は静雄を自分に繋ぎ止める術をもう持たない。天敵でも友達でもいられないのなら、残された選択肢は「他人」だけ。
それはいけない。それだけは嫌だ。だから、こんなひびだらけの関係にすがりついているのだ。少しでも長く彼と関わっていたい。そのためなら、自分の想いを捨てて、静雄の「友達」というポジションに甘んじるつもりだった。けれど、

「本当に、優しさの欠片もない部下だなぁ……」

「友達」で満足できるだなんて嘘だ。どんな繋がりでもいいだなんて、本心なわけがない。このどろどろとした気持ちをそんな簡単に抑制できるのなら、そもそもここまで彼との関係に執着していない。

秘書が帰って静まりかえった室内に、あと少ししたら彼が来る。きっと彼は秘書が買ってきた上等なワインに機嫌をよくして、あの無愛想な顔を少しだけ緩めるのだ。そうして「友達」である臨也に短く礼を告げるのだろう。
そんな他愛ない時間を、誰になにを言われようと手放すつもりはない。大切に大切に守り続けるつもりだ。だって臨也は、それ以外の方法を知らない。

そうだというのに、頭の中では秘書が最後に言った言葉がいつまでもぐるぐると回って反芻される。耐えられなくなった臨也は、ワインのコルクを抜いて、少し甘くて少し渋い液体を瓶のまま飲んだ。

「あなた、いつまで我慢できるのかしらね」

その声はまるで悪魔の囁きのように、アルコールとともに臨也の思考を蝕んでいった。







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