!ふたりが全く戦争をしていません



ひんやりと優しい風が頬を掠める。
外とは違って涼しく過ごしやすいこの場所は、けれどもいつもひとがまばらにしかいない。他の生徒たちは教室で暑い暑いと連呼しながら、授業が終わるとさっさと学校から出ていってしまう。暑さから逃れるように家に帰ったり、どこか涼しい場所に寄り道しなくても、もっと素敵な場所がここにあるというのに。
まあ、静雄はこのあまり大きくない図書室の静けさを結構気に入っていたので、たくさんの生徒に押し掛けられても嫌なのだが。そう考えると現状はとても望ましいかもしれない。
それにお気に入りの場所は存外、独占したいものである。

図書室の入り口から近いところにこじんまりとしたカウンターがある。どこの学校にもある、図書委員が座って作業するスペースだ。そこに当番にかかわらずいつも座っている男がいる。黒髪の、ひどく整った顔をしている彼は今日も分厚い外国語で書かれた本を読んでいた。
黒ぶち眼鏡がよく似合っている。レンズの奥の瞳は鮮やかな色をしていて、長いまつげは頬に影を落とす。ぱらり、とページをめくる音を聞くだけで、どうしようもなく心が踊った。

放課後の穴場であるこの図書室をひとりじめしたい理由、それは涼しさの他にこの男子生徒にもあった。









男子生徒の名前は折原臨也。隣のクラスの生徒らしい。
噂に疎い静雄が知っているほど、彼は成績が優秀で女子にモテた。特定の恋人は不明だが、いつも彼の周りには取り巻きのような女子生徒が山ほどいる。クラスの男子はそれを悔しがっているみたいだけど、静雄は羨ましいどころか面倒そうだなと思った。取り巻きになるような女子に限って、集団になると信じられないほどうるさい。静雄は静かな方が好きだ。この学校の、寂れた図書室のように。

じゃあ、なんで自分は折原臨也が好きなんだろう? 彼はよく言えば歓声、悪く言えば騒音の中心にいる。休み時間に隣のクラスから響く声の頂点にいるのだ。
答えはわからない。彼を好きになったのも彼から目を離せなくなったのも、ひどく突然なことだった。たぶん、これが一目惚れというやつなのだろう。

はじめて彼の顔をちゃんと見たのは、授業の調べ物のために図書室に訪れた日。静雄はそれまで学校の図書室には行くことがなくて、その日行ったのもわざわざ区の図書館の行くのが面倒だったからだ。
その時カウンターで見た彼に、静雄はひとめで恋に落ちた。慣れない図書室でうまく資料を見つけられない静雄に、彼は優しく笑んで、「今週締め切りの生物の課題の資料?」と声をかけてきてくれた。

その日からずっと、静雄は毎日図書室に通っている。最終下校までの短い間、彼から少し離れたところで、ひっそりと彼の気配に陶酔しているのだ。









そうして静雄は今日も図書室で放課後を過ごしていた。こじんまりとした図書室にはそれでも溢れるほどの本があって、あまり本好きではない静雄はあまりにも多い選択肢に、どれを読めばいいのかと本棚の前をうろうろする。すると、突然本棚に伸びるしなやかな腕が視界に入った。

「……なっ!」
「あ、ごめん驚かしちゃった? なんだか読む本を悩んでいるみたいだから、選んであげようと思って」

そう言って微笑むのは、あの折原臨也だ。静雄が呆然としていると、彼は「これとかお勧めだよ」「これなんかどう? ラストが秀逸でね」「これはあまり夜に読まない方がいいかも、死にたくなるから」とぺらぺらと喋って次から次へと本を手渡してくる。積み重なった本が静雄の顔を隠す前に、静雄は我に返って「ちょっと待て!」と焦った声を出した。

「こんなたくさん……さすがに読めねえよ」
「あれ? 君、読書家じゃないの? 毎日図書室に必ずいるだろ」
「別に本は嫌いじゃねえけど、俺が毎日ここに来ているのは―――、」

そこまで言いかけて、ハッとする。自分は今、なにを言おうとした? 「俺が毎日ここに来ているのは、お前に会うためだ」だなんてまるでストーカー宣言のようだ。あまりの羞恥に、静雄は顔を真っ赤にする。
折原臨也はそれを見てきょとんとした。その純粋な疑問の眼差しに耐えきれず、静雄はやけになって叫んだ。

「な、なんでもない」
「明らかになんでもなくないでしょ」
「う、うるさい! あ、あれだ、明日からもうここには来ない」
「はあ?」

あああ、自分はなんて支離滅裂なことを言ってるんだ。これじゃあきっと彼も呆れているだろう。静雄のことをわけがわからないやつだと思っているかもしれない。
そして、明日から図書室に行かないだなんて、自分はなんてことを言ってしまったのだろう。失言を取り繕うどころか、自分で自分の首を絞めているみたいだ。だって、図書室に行けないで一番困るのは静雄なのであって、折原臨也にはいたってどうでもいいことなのだから。「あ、そう」と軽く返されるに決まっている。
だが、静雄の予想を裏切って、折原臨也はひどく不機嫌そうな顔をした。拗ねたような表情をして、彼は静雄の手から積み重なった本を全部取り上げて、一冊だけ差し出してくる。

「はい、今日の分」
「え?」
「明日、読み終わんなくても俺のところに絶対来て。読み終わったなら、別の本を渡すから」
「えっと?」
「……俺の周りには本に興味を持つような知性的なやつはいないみたいだ。だから君が俺の好きな本を読んでくれれば、俺にはいい話し相手ができるわけだ」
「…………」

つまり、共通の趣味を持った友達になれ、ということだろう。友達だなんて、喜んでいいのか悲しむべきなのか微妙なポジションだ。叶うはずのない気持ちであることは重々承知しているが、中途半端な関係を築くのならただ眺めているだけの方がいい。それでも好きなひとからそんなことを言われて断れるはずもなく、静雄はせめて負け惜しみのようにぶつぶつと呟いた。

「読書家なお前が好きな本なんて、俺が在学中に全部読みきれるわけないだろ」

その憎まれ口に、折原臨也は「なにを馬鹿なことを」と呆れた顔をして言った。

「誰が図書室に来いと言ったかな? 俺は毎日俺のところに来いと言ったんだよ。君が本を読み終えても、そうでなくても」

君が俺が好きな本を読み終えるまでずっとね。

恋に浮かされた静雄には、その言葉はまるでプロポーズのように聞こえてならなかった。











きっとシズちゃんが臨也の好きな本を一冊読んでいる間に、臨也は四、五冊本を読んでいるかと(笑)
=一生僕の傍にいてください



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