焼けるような猛暑の中、臨也は冷房のよく効いた保健室で悠々と過ごしていた。固いベッドに横たわり、携帯電話の操作をする。保険医は今日は休みのようだが、保健室のキーはもうすでに入手済みだ。ついでに保険医をはじめとするこの学校の教師はみな、臨也がサボっていてももはやなにも言わないだろう。 「なんか、ここまで行くといっそつまんないなぁ……」 この学校の多くを従えてしまった今、臨也にとって高校はどうでもいい存在となっていた。どれだけ授業をサボろう一言脅せば卒業できるだろうし、それほど熱を入れずともトップレベルの成績を取ることだって可能だろう。趣味で始めた情報屋も安定してきた頃だった。なんというか、生活に張りがない。 なにか刺激的なことはないだろうか。そう思って携帯電話の操作をしているのだが、入ってくる情報はみんなありきたりなものばかり。落胆に顔を歪めていると、よく知った人物からメールがきた。もう授業は終わったのだろうか、と臨也は首を傾げてメールを開こうとした―――ちょうどその時。 「……へ?」 保健室の扉が何者かによって開けられた、ことはいいとしよう。臨也は保健室の鍵を開けっ放しにしていたから、具合の悪い生徒が来てもおかしくない。 ならば、保健室に来たのが平和島静雄だったらどうだろう? これもまた、あり得ないことではない。いくら静雄が規格外であっても、怪我の治療はするし、体調を崩すことだってあるだろう。偶々保健室に来たら示し合わせのように天敵に会ってしまったという確率は、低かろうがある。 しかし、臨也は目の前にある光景だけは信じることができない。 色が抜けて光る金髪を存分に曝して、静雄は顔を下にうつむけていた。綺麗に骨ばった手のひらは、しわができるくらいスラックスをぎゅっと握りしめている。弱々しく震える肩を見て、臨也は言葉が出なかった。 夢だと思いたい。自分の天敵であるはずの男が、敵を前にしてこれほど弱々しい素振りを見せるだなんて。 あまりの光景に、臨也はほんの少し隙を作ってしまう。だから、いきなり自分の体の上に馬乗りになってきた静雄になにも言えず、ただただ、「ああ、ついに殺されるのか」と頭の片隅でやけに冷静に思った。 「確かにさっきまで退屈だったけど……これはこれで刺激的すぎるよ、もう」 「……」 「首を絞めるの? それともタコ殴り? あ、シズちゃん格闘技観るのすきなんだっけ。やめてよ、関節技とか。どうせやるなら一瞬で……っ!?」 思考がついていかない。そして、言葉も続けられない。当たり前だ、唇を塞がれたのだから。 それは拙いくちづけだった。臨也が今までしてきたキスの中で、ぶっちぎりかもしれない。不器用に押し付けられた唇は、けれども、甘く柔らかい気がする。それこそ、ぶっちぎりで。 キスは長く続かなかった。静雄はキスの合間の息継ぎの仕方を知らないのか、顔を真っ赤にして肩で息をしている。行動にそぐわぬ純情さだ。 「シズちゃん? あれ、あれかな、暑さにやられて俺を誰かに間違えてない?」 「……間違えてねぇ」 「え、あ、そうなの? じゃあ、新しい嫌がらせかな? すごいじゃないか、君にも心理的嫌がらせができるんだね。成長したんじゃ、」 「嫌がらせ、か」 ぽつりと呟く静雄を見て、臨也は押し黙った。何故、そんな泣きそうな目をするのだ。震える静雄の声は、臨也になにかを訴えかけるように響く。 おかしい。こんな展開は全く予想していなかった。これじゃあまるで、シズちゃんが俺に恋しているみたいじゃないか。 「……じゃあ、嫌がらせでいい」 「え、」 「この世で唯一愛せない化け物と体を重ねて、屈辱を感じれば良い」 そう言うやいなや、静雄は臨也の体にそっと手を這わせ、あろうことかスラックスのジッパーに手をかける。臨也は驚き半分、そして握り潰されたらどうしようという恐怖半分で慌てて静雄の手首を掴んだ。 すると、静雄は掴んできた臨也の手に顔を近づけ、ぺろりと舐め上げた。 「ちょ、シズちゃん」 舐められて力がゆるんだ臨也の手を振り払い、今度は指先に唇を落とす。臨也の長い指をくわえて舐める静雄の姿に、くらくらと目眩にも似たなにかを感じた。 なんでこんなことを。心が手に入らないなら体だけ、だなんて彼らしくないだろう。そもそも、こういう行為に手慣れていない静雄には全くもって向いていない。そこまで考えて、臨也はようやく冷静になった。 そう、こんな色気落としみたいな真似は単純な彼には思い付くはずがないのだ。 「ねえ、シズちゃん」 「ひっ、なにして……!」 落ち着いてみればこっちのものだ。だって経験値が違う。 静雄の口内をぐりぐりと弄くりながら、臨也はにっこりと笑った。 「黒幕は誰かな」 「え……」 「わからない? 俺は、君に妙な入れ知恵をしたのは誰かと聞いているんだけど」 途端に、静雄はぴたりと臨也の指を舐めるのをやめる。 至近距離にある彼の顔は、叱られる前の子供みたいな怯えた色をしていた。 放課後の教室で、ひとり眼鏡の生徒が残っている。手には二人ぶんの鞄があり、表情はどことなく楽しそうだ。 「ひどい友達だ」 臨也がそう呟きながら教室に入ってきても、新羅は一向に笑みを絶やさない。にこにこ笑いながら、「メール見た?」と尋ねてきた。 「ああ、保健室から教室に向かうまでにね」 「なら返信してよ」 「直接言いにきてやったんだよ。ひどい友達だ、ってね」 臨也の不愉快そうな顔に新羅はあははと声を立てて笑う。 「『びっくりした?』だなんて、見た瞬間に殺意が沸いたよ」 「……え、そんなに怒ったの?」 「まあ、メールを見たときにはもうわかっていたからそこまで腹はたたなかったけど。けど、まさか君がシズちゃんにあんなことを唆すだなんてね」 「人聞きが悪いなあ。僕は悩める少年の恋のお悩み相談に乗ってあげただけさ」 「よく言うよ。あんな馬鹿みたいな罪悪感の塊は、唆されたりでもしない限り、思いを寄せる相手を強姦しようとするものか」 一言だ。一言だけしか静雄に問いかけていない。「誰に唆されてこんなことをするのか」と。けれど、それだけで静雄の決心は簡単に揺らぎ、顔を青くしながら小さな声で「悪い」と詫びた。馬鹿なことをしたと弱々しい声で呟いたのだ。 「お前の目的は知らないけど、こっちは危うく貞操の危機だったんだからな」 「ああ、大丈夫。静雄は童貞だろ? それで君をどうにかする自信がないみたいだったから、とりあえず臨也を欲情させて身を委ねればいい、って言っておいたから」 「俺が、シズちゃんに欲情すると?」 「あれ? しないの?」 臨也は口許を釣り上げて嘲笑する。どうやら答えるつもりはないらしい。 「ねえ、シズちゃんの鞄ちょうだい」 「腹いせに鞄でも隠すつもり? 嫌がらせが小学生並みだね」 「違うよ。持っていってやるんだ」 「……静雄にかい?」 「他に誰がいるって言うんだよ」 呆れたように肩を竦める臨也は、どこか機嫌が良いように見える。それを見て、新羅は急に青ざめた。 もしやこの男は、静雄の好意を逆手に取って、彼にひどくきついことを言ったのではないだろうか。もしくは手酷く犯した後に、「死ねば良いのに」だなんて辛辣な言葉を吐いて聞かせたのかもしれない。なんて極悪な男だ。自分だって天敵にひとかたならぬ想いを抱いているというのに。 そんな新羅の糾弾するような瞳を見て、臨也はひどく愉快げな顔をする。 「シズちゃんはね、今、保健室にいるんだ」 「……まさか、本当にやっちゃったの?」 「いいや。哀れなくらいに体を震わせて謝ってくるものだから、優しい俺は彼をたんと甘やかしてあげたんだ」 「具体的に言うと?」 「抱き締めて、キスして、愛を囁いてやった。何度も何度も。そうしたらあいつ、どうしたと思う? 疑惑の眼差しを向けつつも、嬉しくて嬉しくてたまらないって顔をしてさあ。あはは、まるで犬だ」 言葉だけを聞くと、いつものように静雄を馬鹿にした調子だ。だが、正面から見える臨也の顔は、信じられないくらい甘い。自分がセルティを想う時の顔は、ちょうどこのような顔ではないだろうか。 「そう……、よかった」 「何が?」 「いや、吹っ掛けた張本人が言うのもなんだけど、元々静雄は失敗すると思っていたんだ。だから唆した。君の気持ちも知っていたしね」 新羅は椅子から立ち上がり、自分の鞄を手にとる。長年知っている友人たちがようやく結ばれるだなんて、なんだか自分まで楽しくなってきた。 「せっかくだ、今日はうちにおいでよ。お祝いしてあげる。セルティもきっと驚くだろうなぁ」 「新羅、最終下校時刻まで、あとどれくらいある?」 「え、二時間くらいかな?」 「そう」 臨也は「悪いけど」と言って、いっそ憎たらしいほど綺麗に笑った。 「今日はお邪魔できないかな」 「え、用事あるの?」 「うん、今からね。だってシズちゃんが保健室で俺を待っているんだから」 その甘ったるい声に首を傾げていたのは一瞬のことだった。新羅はすぐにその意味するところを理解し、ぎこちなく微笑んだ。なるほど、やっちゃったわけではなく、今これからやるのだろう。 静雄が保健室に行ってから一時間が過ぎた。その間ずっととろとろに甘やかされ、今は保健室にひとりでいるという静雄。それはつまり―――、 「ふふ、お預けを食らって、俺が帰ってくるか心配で不安で、どうしようもなくなっちゃって、いっそ泣きそうなシズちゃん。俺が帰ってきて嬉しくてたまんないって顔をするんだろうなあ……ああ、本当にゾクゾクするよ」 新羅は「待て」を食らって不安そうな顔をしているだろう静雄を思い浮かべ、「厄介なやつをすきになっちゃって」と心中で深く同情した。 back |