!長編「終わりまでの数え歌」の続編ですが、准教授折原先生×大学生平和島君という予備知識があれば大丈夫かと。 大学の規模や分野によって事情は異なるが、それでも折原臨也がその若さで准教授の任に着いているのは極めて珍しい例のようだ。そう同じ学年の女子が噂をしているのを聞いたことがある。 海外での実績や高校を飛び級して大学に行った話など、それらの話がどこまで真実なのか静雄は知らない。そして、知ろうとも思わない。むしろ、知りたくない。 静雄はひとつため息を吐いて、ノートパソコンの電源を切る。今日はどうにも課題に集中できそうにない。 提出は来週だから、焦ることはないか。そう思いながら、ノートパソコンをぱたんと閉じた。 「課題、終わったの?」 突然耳許で聞き慣れた声がして背筋がぞわりと震えた。少し低くて、とろけるような甘い声。思わず先週の夜の彼を思い出して目眩のようなものを感じる。 「……用事は終わったんですか」 「うん。お待たせ、静雄君」 そう言って微笑む彼は相変わらず整った容姿をしている。女子も騒ぐわけだ。静雄は眉をひそめて、「別に」とそっけなく返した。 彼、折原臨也は准教授である。だから彼は研究室を持っているし、直接指導する必要がある生徒もいる。特に彼のゼミは人気で、定員ギリギリまで生徒を受け持っているのだから、静雄がこうして臨也の研究室でひとり彼を待つことも少なくない。 それを不満に思うのはきっとひどくわがままなことだろう。臨也は静雄のものではないし、これが彼の仕事だ。そうわかっているのだけど、上級生が臨也と親しげに話すところを静雄はどうしても直視できない。馬鹿な嫉妬をしてしまうとわかりきっているから。 静雄が黙ってうつむいていると、臨也は「珍しい」と愉快そうな声を上げた。 「オー・ヘンリーか。君はアメリカ文学も読むんだ」 臨也が指差す先には一冊の文庫本。それは先ほど図書館で借りてきたばかりのものだ。 「……アメリカ文学の授業を取ったんです。今はそのレポートを書いていて」 「面白かった?」 「はい」 この短編集はとても色彩豊かなお話ばかり集まっていた。少し切なかったり、面白かったり、オチが衝撃的だったりと、最初から最後までするすると読むことができた。 「でも、俺は、やっぱイギリス文学の方が好きです」 雰囲気、独特の感性、文章の書かれ方。そのどれをとっても、静雄はイギリス文学の方が気に入っている。まだまだ読解力は足らないが、いつかはシェイクスピアの原書を読んでみたい。静雄の脳裏に『オセロ』の原書を瞳を細めて読んでいた臨也が過る。そうしてまたプライベートでの彼を思い出し、くらりとした。 臨也は「そういえば、」と急になにかを思い出したのか少し早口で話し始める。 「シズちゃん」 「は?」 「さっきゼミの子と話していたんだけど、シズちゃんっていいと思わない?」 「……まさかと思いますけど、それ、俺のことですか?」 にこりと笑って頷く臨也に静雄は苦い顔をした。シズちゃんだなんて、まるで子供のあだ名だ。そんな呼び方で呼ばれる度に、臨也のゼミの学生はくすくす笑うのだろう。彼らには悪意はないのだろうけど、静雄にとってはとても我慢できることではない。 本当に醜い焼きもちだ。相手の善意を濁ったものと見るのは、きっと自分がひどく汚いから。そんな自分を見てほしくなくて、静雄は黙って席を立つ。 「あれ、シズちゃん?」 「……先生は忙しそうなんで、俺はもう帰ります」 「あ、もしかして焼きもち?」 「…………」 「それとも、そんなにシズちゃんって呼ばれるのが嫌だった? じゃあ―――、」 「もう、ほんと帰りますから」 「待ってよ、『静雄』」 その声に思わず足が止まる。静雄、だなんて滅多に呼んでくれないくせに、こういう時に使うなんて本当に狡いひとだ。 臨也は静雄のお腹に手を回し、後ろからぎゅっと抱き締めてきた。 「待ってよ。君とこうしてふたりきりになるために、頑張って仕事を終わらせたんだ。そんな恋人にご褒美をちょうだいよ」 「……大人のくせに、俺みたいなガキからご褒美が欲しいんですか?」 「うん、だって俺は狡い大人だから」 そう、彼は狡い大人だ。けれで、そんな彼が好きなのだ、静雄はそれを責めることはできない。 臨也と親しく話している生徒が嫌いだ。臨也を慕って、彼の過去を調べて騒ぐ女子たちが全く理解できない。彼女たちは自分たちが知らない臨也を知って、悔しくないのだろうか? 静雄は嫌だ。自分が知らない臨也のことを知るにつれて、自分がまだまだ彼のことを知らないと思い知らされるから。 そんな静雄の子供の癇癪のような気持ちを臨也は好きだと笑うから、静雄はひとり彼に溺れていく。いつか恋人の余裕を全て奪い去ってやろうと、心の内で企みながら。 静雄が生徒と親しく話す自分を見て妬いていることは知っている。だから臨也は生徒と親しくしているのだ。 本当は泣き出したいくらい彼が我慢していることも知っている。それくらい臨也が好きで好きでたまらない静雄が可愛くて、臨也は気づかないふりをしているけれど。 本当に、自分はなんて狡い。静雄が高校生だったあの時から、ちっとも変わっていない気がする。静雄の不安を打ち消してやるどころか、それを見て楽しんでいるのだから。 (でも、まあ、たぶらかされているのは彼だけではないよね) ひどく真っ直ぐで、ひたむきな瞳。熱に浮かされた彼のその視線の威力を、果たして彼自身は自覚しているのか、否か。臨也が他の生徒と話している時から何気なく本を読んでいる時まで、彼の熱い視線にどうしようもなくやられている臨也のことを静雄はきっと知らない。 さっきだって、イギリス文学が好きだと言った時の彼の顔に臨也は内心狼狽していた。あんな赤らめた顔でそんなことを言われたら、ひどく自分勝手な考えをしてしまっても仕方がないだろう。君がそれほどイギリス文学に入れ込む理由を、俺と考えても自惚れではないのだろうか? 「ねえ?」 静雄が好きな声色で耳許にそっと囁いてやる。すると、彼は耳まで真っ赤にして体を震わせた。 「俺さぁ、この後もう授業ないんだよね。ゼミの子達にも今日はもう帰るって言ってあるし」 「だ、だから、何ですか!」 「鈍感」 いや、ちゃんとわかっているよね? だから君はそんな期待に満ちた瞳をしているのだ。 「研究室と俺の自宅、どっちがいい?」 プライベートは君のもの このまさんへ 遅くなりました! そしてなんだかリクエストにそえていないような気が……ものすごく。 返品・書きなおしは可能ですので、気軽にお申し付けください。 |