これの続き



曇り空は昨日までの暑さをひっそりと隠していた。天気予報では降水確率が50%だと放送されていたのを記憶している。それでも、臨也は傘を持たずに家を出た。
雨が降ったら降ったでタクシーにでも乗ればいい。どうせ用事があるのは室内だ。
池袋にある四木のマンションを訪ねるのはあまり多いことではない。ひとに聞かせられない重大事項、あるいはプライベートな情報提供がそこで行われる。今日は四木の独断の仕事に関わる情報を持ってきていた。
組の上の方の立場になると、そういう個人で済ませる仕事が多くなって大変なんだろう。臨也は他人事のようにそう考えながら、四木の所有するマンションのエントランスホールに入った。

「え?」

そこで臨也が驚いた原因は、高級な床や壁がためではない。
住人用か、客人用か、エントランスに置いてある黒張りのソファに、何故だか平和島静雄が座っていた。それも、いつものバーテン服を着ないで、味気ないシンプルな服を着て。
臨也の驚いた声に反応して、静雄はゆるゆるとこちらを振り返る。やばい、と思って身構えるが、予想外なことに静雄は無反応だ。まるで、彼の瞳に臨也が映っていないかのように。
臨也は戸惑った。それは臨也に無反応な静雄に対してというよりか、そのことに苛立つ自分に対してだ。
そんな、まるで自分を見てほしいだなんて。 驚きで呆然としてしまう。けれど、それは変えようのない事実だった。

「雨か」

不意に呟いた静雄の声に、臨也は返事をすべきか迷った。これは独り言にも話しかけられたともとれる。うーんと小さく唸っていると、色素の薄い静雄の瞳がようやく臨也を捕らえた。

「ああ……、お前だったのか」

静雄の瞳がようやくこちらに向く。それを見て、臨也は息を呑んだ。
なんて目をしているのだろう。そんな天敵の目を臨也は初めて見たかもしれない。
静雄はただ立ち尽くしている臨也を無感動に見ていたかと思えば、「ああ、仕事か」と納得したように頷いた。

「それなら、今は行かない方がいい」
「え? 何で」
「ただの助言だ。聞くか聞かないかは自分で決めろ」

静雄はそう言うと、ゆっくりと立ち上がって音もなくエントランスから出て行った。外はぱらぱらと雨が降り始めていて、エントランスから肩を濡らして立ち去る静雄の背中が見える。その体が小さく弱々しく見えたのは臨也の目の錯覚だろうか。
臨也がしばらく身動きをせずに立ち竦んでいると、突然携帯がコートのポケットの中で震えた。取り出して見てみれば、一通の新着メールを受信している。相手は四木で、急な用事が入ったから取引を延期してほしいという内容だった。
それを見て、臨也は驚かなかった。それよりも、彼の脳裏には未だに肩を濡らして去っていった静雄の残像が色濃く残っていたのだ。











それからしばらく経った。四木の所有しているマンションに訪れると、案の定彼はあの日のようにエントランスのソファに座っている。それは今ではもう見慣れた光景になりつつあった。

「お前また来たのか」

うろんな目でこちらを見てくる静雄にぎくりとしつつも、臨也は少しもポーカーフェイスを崩さない。それから軽く肩を竦め、やれやれと呟いた。

「しょうがないだろ。お客様が自宅を指名したんだから」

それは嘘だ。臨也は内心苦笑する。今日も四木には用事はない。
臨也の用事があるのは、この喧嘩人形もどきにだった。
手にしていた茶封筒を静雄に手渡す。静雄はそれを受け取ったが、そのまま開こうとしなかった。

「五人って、すごい現実的な数だと思わない?」
「……」

黙り込んだ静雄を見て、臨也は何かに無性に腹が立った。
それは四木に? それとも静雄に? わからないけれど、それはもしかしたらふたりに対してかもしれない。

四木のマンションで静雄を初めて目にしたあの日、臨也は帰宅するやいなや、ありとあらゆる情報源を辿り、四木と静雄の間柄を探った。
けれども、ふたりの関係を明確に示すものは塵ひとつない。むしろ、四木と静雄は全くの面識が無いんじゃないのか、という風に思えてしまうくらいだ。
そうして調べるうちに出てきたのは四木の数人の愛人の存在。誰もが綺麗で、コネや権力を持つ女たち。しかしながら、彼女たちは恐らく情報源や駒であろう。もしくは、本当に愛している恋人ではない。臨也は切れる頭でそう思った。
そう―――あるいは恋人は“彼女”じゃないのかもしれない。
憂いの籠った琥珀色の瞳と、「今は行かない方がいい」という静雄の言葉。
もしかして、静雄は四木の恋人で四木はあの日恋人を差し置いて浮気相手とよろしくやっていたのかもしれない。そんな下世話な予想に臨也は表情を歪めた。
頭に浮かんで消えないのは、涙を流さない静雄の姿。
そして、臨也が建てた仮説通りならば、この茶封筒は静雄に渡してはいけないタブーである。ひとの色恋沙汰に無闇に首を突っ込む趣味はない。が、今回ばかりは手を出さずにはいられなかった。なぜかは、それこそ自明だ。長年無視してきた恋情というツケがようやく回ってきたということであろう。

そうして今まで何度も静雄に浮気調査のようなものを渡してきた。それこそ、ひとりでも愛人が変われば即座にその女の調査を徹底的に行ったのだ。静雄はもしかしたら愛人の存在どころか、彼女たちの嗜好まで把握しているかもしれない。

「お前……、ストーカーにも向いてるな」

静雄はそう言って、微かに笑った。その笑顔はなんだか儚げで、どこか諦念にも似ている微笑みだ。そんな静雄の顔を見た瞬間、臨也は今まで言わずにとどめていた切実な思いを激流のように吐き出した。

「なんであのひとなの?」

あのひとには、君がそこまで耐えるほどの価値があるというのか。君はあのひとのせいで泣くに泣けなくなってしまったというのに。それでもなお、あのひとじゃないといけないのか。

臨也のその言葉に、静雄はきょとんとする。が、その後すぐに腹を抱えて笑い始めた。そんな彼の姿に今度は臨也の方が呆然とする。

「シズちゃん?」
「ふ、ふははっ、お前って意外と……わかりやすいな」
「は?」
「それ、告白に聞こえる」
「なっ!」

言われてみればそうだ。しかも、ひどく情けない告白かもしれない。更に笑い声を大きくする静雄に、臨也は羞恥を感じてキッと睨み付ける。だが、静雄はそんな臨也の視線を嬉しそうに受け止めた。

「はは、こんなに笑ったの、いつぶりだろうな」
「……俺もこんな屈辱を受けたのは久しぶりだよ」
「拗ねんなよ、大体お前が悪いんだぞ」

静雄は口許を上げて意地悪く笑おうとしたのだろう。だが、眉尻は下がり、瞳からはぽたりぽたりと雨垂れのような涙が出ていて、その顔はひどく弱々しく見えた。

「ほら、お前がこんなに笑わせるから、笑いすぎて涙が止まらないんだよ。どうしてくれるんだ」

次々と流れ出る滴を臨也は恐る恐る手にしたハンカチで拭う。けれど、涙はどんどん水量を増し、拭ききれずに首筋まで落ちていく。雨のように泣く彼を見て、臨也は衝動的にその体を抱き締めた。

「責任を、取ってもいいのかな?」
「あんまり野暮なことは聞いてくんじゃねえよ」
「……まさか四木さんへの意趣返しに俺を愛人にする気じゃあ?」
「手前は本当にうざいな」

何で愛人ごときに涙を見せなきゃなんないんだよ。静雄はそう言って、ひどく綺麗に笑った。






雨を降らせた責任を







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