毎朝ずれることなく鳴る目覚まし時計の音で静雄の一日は始まる。制服に着替え、顔を洗ってからリビングへ向かえば既に朝食をとる弟の姿があった。
「兄さん、おはよう」
「おはよ…母さんは?」
「お隣の佐々木さんと話してる」
テーブルの上には二人分の食事と色違いの弁当箱が二つ用意されていた。そして、朝食を済ませた二人が向かうのは玄関ではなく庭。ガーデニングが趣味の母が世話する草木に、毎朝水をやるのが兄弟の日課だった。
「そう言えば、またあったらしいよ」
「ん?」
「放火」
最近この一帯で頻発している不審火。犯人はまだ捕まっていないらしい。幸い住宅地のすぐ近くに消防署があり、大きな被害は出ていなかった。
「あら!静雄に幽、あなたたちまだいたの?早くしないとバス乗り遅れちゃうんじゃない?」
ホースの後片付けをしていると、いつの間にか帰って来た母親の言葉に改めて時刻を確認する。少しお喋りし過ぎたらしい。慌てて鞄と弁当箱を掴むと兄弟揃って家を出た。




「おはよう静雄。いつもより5分遅刻だ」
バス停には既にクラスメイトの新羅が待っていた。いつもは静雄の方が先にいるのだが今日は少し遅れてしまったらしい。
なお幽の通う中学は徒歩圏に位置し、いつもバス停前の交差点で別れる。来年は静雄と同じ高校を受験することになっていた。
「そう言えば今日だね」
「何が?」
「ほら、最近不審火による火災が頻繁してるから学校全体で消化訓練するって言ってただろう」
「あー…そうだっけ?」
「しっかりしてよ。しかも、来るのは静雄んち近くの消防署からだって言うじゃないか」
「ふーん」
通学路には確かに消防署がある。けれど静雄には興味もない、所詮は景色の一つだ。思い出そうにも建物自体ぼんやりとしている。
間もなく来たバスに乗り込むと静雄は欠伸を一つ噛み殺す。昨日もサイレンに叩き起こされ軽く寝不足だった。
「犯人早く捕まるといいね」
新羅の呟きに、静雄は賛同しつつも曖昧な返事しか返せなかった。




グラウンドに集められた生徒たち。背の高い静雄は最後尾から騒ぐ女子生徒を見ていた。
「初めまして、池袋消防署から参りました折原臨也です。今日は皆さんに火災発見から通報までの手順、消火器の使用方法、避難について実践を交えて説明させて頂きます。」
壇上に立って挨拶をしている隊員はまだ若く、その容姿はひどく整っている。若いと言え、高校生から見れば十分大人だ。同級生や一つ、二つ年上程度の先輩とは違うのだろう。騒ぐ女子生徒の中には写メまで撮る輩もいたし、頻りに「カッコいい」なんて言葉も聞こえた。
(確かにきれいな顔してるけど、消防士には見えねぇな)
最後尾でも静雄には男の顔がはっきりと見えた。染めたことなどないだろう黒髪に健康的な白い肌。隊服から除く細腕では、重い消火機材を扱い人命救助に尽力する姿が静雄には想像出来なかった。
一年生は体育館で通報までの流れを、二年生はグラウンドで消火訓練、三年生は校舎からの避難練習。静雄は二年生の為そのままグラウンドに残った。
「消火器なんて使ったことないや。静雄くんは?」
「殴られたことならある」
昔から人より丈夫な身体に些か強過ぎる力の所為で、身に覚えのない喧嘩に巻き込まれることが多かった。その数ある喧嘩の内、消火器で殴られたこともあれば金属バットや鉄パイプで殴られたことだってある。
「人命救助に使うべき代物で人を殴るなんて…相手は何を考えてるんだろうね」
「っ!?」
「あ、さっきの…」
新羅と静雄が話していれば、いつから聞いていたのか先ほどの消防士が後ろに立っていた。
「消火器だろ、痛かったんじゃない?」
白く長い指が静雄の後頭部に触れる。たったそれだけのことに息が詰まった。
静雄は自分の頭を撫でる男を見る。遠くで見るより、ずっときれいな顔をしていた。少し赤みがかった瞳と目が合う。
「い…いつまで触ってんだよ」
「ああ、ごめんね…つい」
(ついってなんだよ)
手が離れると静雄は乱暴に髪を掻く。次に静雄が臨也を見たとき、既に女子生徒が彼を囲んでいて顔どころか姿すら見えなくなっていた。




いつもと変わらず、庭の草木に水をやってから静雄と幽は家を出た。
「兄さん?」
毎日通り過ぎるだけで気にも止めなかった消防署。あんなことがあったからだろうか、静雄は改めて建物を見た。道路に面した車庫に並ぶ赤い消防車。ふと、頭にあの消防士の顔が浮かんだ。
(…あ)
朝礼だろうか、建物から次々に出てくる人の中に思い描いていた人物を見付けた。向こうも静雄の存在に気付いたようで、目が合った瞬間ニコっと微笑む。
「兄さん大丈夫?」
「え…べ、別に」
「そう…でも兄さん―――…顔、真っ赤だよ」
熱でもあるんじゃない、なんて幽の言葉は耳に入らなかった。返事もしないで歩き出す。幽は不思議そうな視線を向けつつも何も訊かなかった。
それからというもの、どうしても消防署の前で足が止まってしまう。登校と下校の2回、それが週5日。下校中に臨也の姿を見るのは稀だったが、代わりに朝はほとんど毎日見ることが出来た。


目が合うと胸が苦しくなる。会えないと悲しい。


この気持ちが何なのか、静雄も流石に気付いていた。しかし気付いていたとして静雄には何も出来ない。するつもりもなかった。
(初めてが男とか…ないわ)
勉強をすると部屋に籠って一時間。頭の中は臨也のことばかりで手は一向に動かない。
(自覚した途端に失恋)
好きだ嫌いだ以前に男同士。もう忘れよう、何度も思っては足を止めてしまう自分がいた。
静雄はノートを閉じるとベッド脇に置いた目覚まし時計を手に取る。アラームをいつもより一時間早く設定すると布団に潜った。




「あら、珍しい」
静雄がリビングに入れば、キッチンでは母親が朝食とお弁当を作っている最中だった。
「これからは学校まで歩いて行こうと思って…」
「随分と急ねえ。幽には?」
「あとで言うつもり」
一時間後起きて来た幽にも静雄は事情を説明し、それに伴って朝の水やりは交代制にした。そして今日は静雄が水をやり、一足先に一人家を出た。
一時間早いだけで通い慣れた通学路もまた違って見えてくる。車も少なく静かだ。
「………」
ここ一ヶ月ほど毎日足を止めていた消防署前。当然外には誰もいない。これが今の静雄に出来る唯一の方法だった。
(どうしたって足は止まっちまうんだから、せめて会わないようにしよう)
会えれば嬉しいが、同時にどうにもならない現実に哀しく思うようになったのはいつからか。
昨晩、少しずつ忘れられるよう努力しようと静雄は決めた。帰りは道を変えて消防署の前は通らない。考えないようにと勉強にも精を出した。
結果として成績は上がり両親は静雄を褒め、学校側も見る目が変わった。静雄は更に勉学に励む。何かしていないと臨也のことを考えてしまいそうで怖かった。
(明日からは朝も道を変えよう)
夕焼け空を見ながら思う。臨也の姿を見ないようにしてから一ヶ月。初めて会った日からは二ヶ月が過ぎていた。
この一ヶ月毎日通っている裏道に入る。すると突然塀の向こうから人が現れて驚いた。男は静雄を見ると直ぐに走り去り見えなくなる。その後ろ姿を怪訝な顔で見ていた静雄だが、隣から聞こえて来た悲鳴に意識は逸れた。




「いやーお手柄じゃないか」
「…そんなこと、ないです」
悲鳴に静雄が駆け付ければ積まれていた古新聞が燃えている。咄嗟に上着を脱ぐと火に向かって何度も被せた。何とか火も消え、静雄が一息吐くと不意に聞こえてきたサイレン。火災に気付いた住民が通報したらしい。そしてやって来た消防車には会いたくなかった人物が乗っていた。
「あとでモンタージュ写真作るから帰りは送るよ」
「え!い、いいですよ!一人で帰れます」
「夜道に未成年一人放り出せる訳ないでしょ」
そう言われてしまえば静雄も頷くしかない。聴取が済むと消防署館内の待合室で臨也を待っていた。
(ちゃんと防火服着てたし、やっぱ消防士なんだな)
現場に現れた臨也を思い出して顔が熱くなる。純粋に消防士という職種はカッコいいと思うし、それが好きな相手なら尚更だった。
「折角、忘れようとしてたのに…」
「何を忘れようとしたの?」
「そりゃーアンタのこと…………は?」
「へえ…俺のこと」
いつの間に現れたのか静雄の後ろには臨也の姿。静雄が自分の失態に気付いたのと声を発したのは同時だった。
「や、やっぱり俺一人で帰ります!」
「まあ待ちなよ」
立ち上がろうとした静雄の肩を臨也が押さえ付け再び座らせる。心臓はバクバク煩いし、頭は真っ白、相手の顔が見れずに俯くしかなかった。
「二ヶ月前の消化訓練から毎朝俺のこと見てたよね」
「…っ」
「でも一ヶ月くらいで見掛けなくなった」
全部バレていたと分かって余計居たたまれなくなる。出来ることなら今すぐ逃げ出したい。けれど次の臨也の言葉に静雄は目を丸くする。
「だから弟くんに訊いちゃった」
「……え」
「そしたらバス通学止めたから一時間早く家出てるって言うじゃない」
「………」
「窓から見えたよ。変わらず足を止める君の姿が」
「…す、みませ……気持ち、悪かったですよねっ」
気を抜いたら涙が溢れそうだった。こんなことになるなら、さっさと止めればよかった。
「俺がここに赴任してきたのは一昨年の春からなんだけど」
静雄の謝罪など聞こえなかったかのよう、何の前触れもなく臨也は昔話を始める。余りに唐突で静雄は戸惑ったが、この現状では黙って聞く他なかった。
「毎朝同じ時間、丁度ここの朝礼時間と同じ時間に消防署前を通る子がいてね」
「なーんか気になって毎日見てた。そしたら段々好きになって来ちゃって」
「二ヶ月くらい前に、その子が通う高校で消火訓練の指導があって。その子は背が高くて金髪だから直ぐに気付いた」
「……そ、れって」
「そう、き「二組の佐々木さんっすか」…え?」
「や、彼女とは中学から一緒で。家も近所で…」
しどろもどろになりながら必死で説明する静雄に臨也は苦笑する。
「残念だけど…その子は男なんだよ」
相手が女性なら仕方ない。諦めも簡単につくと思っていた。なのに臨也の好きな相手は静雄と同じ男だと言う。しかも同じ高校に通う誰かだ。
「えっと…こんだけ言ってまだ分からないの?」
「?」
「ここの朝礼と同じ時間に消防署前を通って、君と同じ高校に通う金髪で背の高い男の子だよ?」
金髪で背の高い生徒は何人か知っている。けれどその内の誰が、臨也の意中の人物なのかまでは静雄には検討もつかない。そもそも臨也はそれを自分に話してどうするつもりなのか。相手のことでも訊きたいのだろうか。だとしたら酷い話だと思った。
「勝手に勘違いして勝手に傷付かないで…はは、困ったな」
臨也の指が静雄の目元を拭って、漸く自分が泣いていることに気付いた。
「あ、す…ませ…」
「ねえ…本当に分からない?」
「……っ」
「あーごめん!もう意地悪しないから」
余計に水量が増した静雄に臨也が慌てて謝る。そんな思い遣りも、静雄には臨也に迷惑を掛けたとしか捉えられない。涙は拭っても拭っても止まらなかった。
「お願いだから泣き止んで。好きな子に泣かれると、どうしたらいいか分からないんだ」
「すみま………え?」
聞き逃しそうになるくらい、臨也は普通にその単語を口にした。ポカンとする静雄の目元を臨也の指が再び拭う。
「あの時間にこの前を通る金髪の男子生徒なんて、君しかいないだろう」




夏が近付いて庭には新しい苗が増えた。目覚まし時計のアラームは一時間遅くなり、兄弟は揃って朝の水やりをし、並んで家を出る。静雄は再び新羅とのバス通学に戻った。
つい数日前には、連続放火犯も捕まり町も平穏を取り戻す。何もかもが元通りとなった。
「シーズーちゃーん、おはよー」
「臨也!その呼び方止めろって言っただろうが!」
日課になっていたあの行為も多少形は変わったが続いている。



向日葵








Chloeのみつをさんからいただきました。ふわわー、消防士な臨也さんという意外性に新たな道が開けた予感(笑) いや、本当に、働く臨也さんっていいですね……!
なんともイケメンな消防士臨也さんと一途な学生静雄くんのかわいさは必見です。家宝として、いつまでも大切に読ませていただきます。本当にありがとうございました。








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