恋人になるということは、果たしてどういうことなのか。月島はもちろん今までそんな経験をしたことがなかった。だから、わからないことは本を読んで学ぶ。今も、月島の周りにはたくさんの恋愛小説が積まれていた。 「……乙女だねぇ」 そんな光景を、臨也は苦笑しながら見つめる。時折頬を赤くする月島は、キスシーンかなにかを見てしまったのかもしれない。珍しく本を閉じるやいなや、うううと唸りながら頭を抱えてうずくまってしまった。 「珍しいね。君が途中で本を読むのをやめるだなんて」 「……臨也さん」 仕事の手を休めて月島のもとへと向かえば、彼は顔を赤くして瞳を潤ませている。そんなかわいらしい様子に、そっと自分の恋人もこれくらい素直だったらなと心中で呟いた。 「君はさ、どんな本であろうと平然と読むじゃないか」 「だ、だって、それは……」 「うん?」 「か、架空のお話だから。でも、こ、こんなキスとかを六臂さんとすると思ったら、その、」 月島はそう言うと、かわいそうなくらい頬を赤く染めた。 全く、なんていじらしい。思わず、自分のような人間が彼の手助けをしてあげたくなるくらいに可憐だ。 臨也は自分のデスクからファイルに入れた書類を取り、それを月島に手渡した。 「えっと、これは?」 「お仕事だよ。極秘だから、あんまりメールを通したくないんだ。だから、君が届けてくれる?」 「は、はい! 誰にですか?」 「君の王子様に」 おうじさま? と言ってきょとんとする月島は、すぐにじわじわと耳まで赤くなる。そしていそいそと準備をし始めた。 臨也はそれを見届けると、デスクに戻ってメールを作成する。これを送ったら、自分によく似た男はきっと慌てるだろう。それが愉快で、臨也は楽しげに笑いながらメールを送信した。 ――君の大切な子が迷子になる前に、ちゃんとお迎えに行ってあげるんだよ? 切符を改札に通して駅を出たら、何故か六臂が駅の入り口付近にいた。駅前になにか用でもあったのだろうか? 彼は月島に気づくと、優しく微笑みながらこちらにやってくる。 「よかった。今日は切符を落とさなかったんだね」 偉いね、と言われて、ふわりと頭を撫でられた。それだけで月島はとても嬉しくなってしまう。六臂がどうしてここにいるかなんてわからないけれど、そんな些事はどうでもいいような気がしてきた。 六臂は「じゃあ、行こうか」と言って、その綺麗な手をこちらに差し出してくる。月島はちょこんと首を傾げ、すぐに自分がすべきことを納得した。急いで肩掛け鞄から書類の入ったファイルを取り出し、それを六臂に手渡す。すると、六臂は苦笑しながら「違うよ」と言った。 「ほら、迷わないように」 「え……、あっ!」 もしかして、六臂は自分と手を繋いでくれるのだろうか。迷子になりやすい自分が、彼とはぐれないように。そう思うと嬉しくて、けれどちょっと恥ずかしくて、逡巡する月島に痺れを切らしたのか、六臂は少し強引に手を握ってきた。 「あっ……!」 「ほら、俺の仕事場までちょっと歩くだろう? だから絶対に手を離しちゃだめだよ」 蜜のように甘い声。その声にどうしようもなく鼓動が高鳴った。 手を繋ぐだけでこんなにも甘美なのだ。六臂とキスをしたら月島は死んでしまうかもしれない。抱き締められたら、もうどうにかなってしまうだろう。けれど、それでも、この大好きでたまらないひとにもっと触れてほしいと月島は思う。それを素直に口にするには、月島にはまだまだ少し勇気が足りないけれど。 六臂の家に訪れる経験はまだ数少ない。けれどもそんな慣れない場所も六臂の気配が色濃いと、緊張なんてしないでずっとここに居座りたいとまで思えてしまう。だが、今日はそんないつもと少し心持ちが異なった。 (さっきまでは六臂さんに会えるのを楽しみにしていたけど、) いざ会って落ち着いてみると、やっぱり頭を掠めるのはあのこと。恋人となって何週間か経ったけれど、六臂とは手を繋ぐくらいのスキンシップしかしたことがない。きっと六臂は慣れない月島に合わせてくれているのだろう。それがとても申し訳ない。 「月島? ココア飲まないの?」 六臂が優しい声でそう問いかけてくる。手元を見れば、生クリームが乗った美味しそうなココア。彼はいつもコーヒーを飲んでいるし、来客にもそれを出す。それにもかかわらずこの家にはココアがあるのだ、それが月島だけのためのものであることは明確だった。 六臂は優しい。月島に冷たい態度をとったこともないし、月島がどんな失敗をしても笑って慰めてくれる。だから、月島だって、六臂のために行動に出なければならない。いや、月島がそうしたいのだ。 「六臂さん!」 「なに? 今日はミルクティーの気分だったかな」 「め、目を瞑ってくれますか?」 「うん? よくわからないけど、いいよ」 六臂が戸惑いながらも瞳を閉じるのを見、月島は隣に座っている彼に近づく。間近で見る六臂の顔はとても綺麗で、月島は心臓が爆発してしまいそうになった。けれど頑張って、自分の顔を六臂の方へと近づけてゆく。 六臂の薄い唇にひどく子供染みたキスをした後、月島は本当に死んでしまいそうなくらいに鼓動が高鳴り、そして、死んでもいいと思えるくらい幸せになった。 「つき、しま……?」 対する六臂は普段の彼らしからぬほど呆然としている。その驚愕の色をした目に耐えられず、月島は逃げるようにソファーから立ち上がった。そしてそのまま玄関まで走って行こうとするが、それより六臂の行動の方が早かった。 「待って、行かないでよ」 すぐ耳元で響く大好きなひとの声。それに腰を抜かしそうになるが、しっかりとお腹に回された腕がそんな月島を支えてくれた。背中からじんわりと六臂の体温を感じ、首筋は彼の息遣いを敏感に感じ取る。項にひとつくちづけを落とされた時には、もうおかしくなってしまいそうになった。 「ろ、ろっぴさん……っ」 「ごめんね、ちょっと我慢できない。しばらくこのままでいさせてくれないかな?」 「だ、だめです!」 「どうして?」 いつもと違う低く甘い声に、月島の体はふるりと震える。「ねえ、どうして?」と繰り返し尋ねてくる声に体が熱くなった。もうこれ以上、こんな、抱き締められていたら―――、 「う、うれしすぎて、死んじゃいます……っ」 「…………」 「だから、その、いったん離してもらえると―――」 助かります、と言おうとして六臂の方を向いて、月島はぴたりと動きを止めた。だって、六臂の顔が僅かだけれど赤く染まっていたのだ。彼はいつも余裕があって、冷静で、こんな赤面をした姿なんて月島は今まで見たことがなかった。 「……月島」 「は、はい!」 「もしかしてさ、君は俺のためにこんなことをしてくれたのかな? 君が奥手だから、俺に我慢をさせていると思ったの?」 月島がうつむいて返事をしないのを見て、六臂はそれが当たっていると察したようだ。くすくすと小さく笑いながら、「頑張ったね」と言って頭を撫でてくれる。 「でも、俺も同じなんだよ」 「え?」 「俺もさ、君と同じ。君とこんな子供のようなキスをしただけで、嬉しくて嬉しくて死んでしまいそうになる」 「六臂さん……」 「我慢なんて、していないよ。君ともっと触れたいという気持ちもあるけれど、でもね、手を繋いだり話したりするだけで幸せでたまらないんだ。だから、」 六臂は月島の頬をするりと撫で、彼の額にひとつキスをする。 「ゆっくり俺と愛し合おう? そうしないと、俺も幸せすぎて死んでしまうから」 幸福に溺れる back |