池袋は最近、少し平和になった。 もちろん、カラーギャングや不良が消えたわけではなく、その数はおそらく以前とさして変わらないだろう。夜になれば怪しげな誘いもあるし、喧嘩も頻繁に起こる。 一見、なにも変わらないように思えるかもしれない池袋の日常。 けれど、誰もがその異変を口にする。 「街灯が引き抜かれない」 「ひとが宙に飛ばない」 「自動販売機が投げられない」 「標識が地面にささったままだ」 池袋の名物とも言える平和島静雄がめったにキレなくなった。 その知らぬものが見たらどうでもよさそうな事実は、池袋に大きな震撼をもたらしたのだ。 「吃驚仰天だね」 新羅は滅多にキレなくなった平和島静雄本人を目の前にして、盛大に驚いて見せる。それに対して、甘いカフェオレを飲んでいた静雄は、稀薄な表情で瞳を細めた。 新羅は尚も続ける。 「こんなことが起こり得るとはね。君が人間の平均寿命の三倍生きる方が、まだあり得る気がするよ」 「そんな長くは生きたくねえな」 「静雄は意外と寂しがり屋さんだもんねえ」 「うっせえ」 静雄は小さく眉をひそめる。嫌そうな顔をするものの、やはり彼はキレない。至って穏やかな表情だった。 新羅は胸の内に溢れる歓喜をどうにか抑える。 まだだ、まだ証明は終わっていない。ぬか喜びであった場合、傷つくのは静雄なのだから。 ちらりと自宅の時計を見れば、もうすぐ約束の時間。あの男を新羅が呼び出した時間。いつもならきっかりちょうどに来るあの男だけれど、きっと今日は―――、 「やあ」 ほうら、来た。 珍しく少し息を切らしている臨也に、新羅は緊張した面立ちを向ける。数秒間、誰も口を開かず、ただ静雄がカフェオレをすする音だけが控えめに響いた。 臨也の表情が、より余裕のないものに変わっていく。 彼は無理矢理嫌な笑みを浮かべ、なんのリアクションも示さない静雄に話しかけた。 「あの話、本当だったんだ」 「あ?」 「シズちゃんがすっかりおとなしくなっちゃったって噂。その姿がまるで嵐の前の静けさのようで、誰も君に喧嘩を売らないんだってね。けどさぁ、君から喧嘩を取ったら、果たして何が残るのかなあ?」 「……」 「何も、何も残らないから、そんなむかつく顔をしてるんでしょ? そんな、俺に無関心な表情」 静雄はカフェオレを綺麗に飲み干し、新羅にありがとなと言った。目が新羅を捕らえる。 それから、視線を臨也に向けた。茶色の瞳は彼を映しているようで、ガラス玉のように無感情。ぞっとするほど冷たい色をしている。 そして、そのまま静雄は挨拶もなしに新羅の家から出ていってしまった。 残されたふたり。臨也はこれは悪夢だな、と思う。まるで悪夢のよう、ではなくて、悪夢そのものだ。 「新羅はさ、あれがシズちゃんだなんて信じられる?」 「…………」 「俺は、信じたくないな。あんなの」 「信じるとか、そういうのじゃないよ、臨也」 「え、」 新羅はにっこりと笑う。 「おめでとう。祝福だよ!」 「……」 「僕としては、こんなこと到底実現し得ないと思っていたからね。まさに夢。セルティが首を取り戻すほどの、太古からの願いだね! まあセルティが太古からいたかはわからないけど。ほら、女性に歳を聞くのは失礼にあたるからね!」 「……君はこれ以上俺に追い討ちをかけて、どうするの?」 悲痛の面立ちをする臨也が、悪いとは思うけど、結構面白い。新羅は彼にコーヒーを淹れてやりながら、友人を少し慰めてやることにした。 「静雄の前で、素直に泣いちゃえばよかったのに」 「今なら本当に泣けそう」 「あはは、重症だね」 「治してよ」 「何を?」 臨也はなにも言わない。けれど、新羅はちゃんと答えを知っている。自分を見ない静雄に、臨也が耐えられるわけがないのだ。 「治すのは保留として、原因はわかるよ」 「原因? 感情のコントロールを上達じゃないの?」 「それは、いくつか考られる要因の中のひとつだよ。僕はメインの理由は他のものだと思っている」 「……やっぱり、慣れか」 「やっぱり、予想していたんだね」 臨也は渡されたコーヒーを一口飲む。口内に広がった苦味は、まるで今の自分の心境のようだ。 「シズちゃんの適応力は半端ないからね。いつか彼は、俺のからかいや嫌味に慣れてしまうんじゃないかって、学生時代から思っていたよ。確かに彼は心は普通の人間だったけど、今まで色々と嫌なことを言われ続けていたからね。きっと、もう痛みも感じないんだろう」 「つまり、静雄が君を見なくなったのはそのせいだと」 「言葉にされると嫌なもんだね」 苦々しい顔をする臨也に、新羅は素朴な疑問を感じる。そんなに悲痛な顔をするなら、何故切り札を使わないのか。 「君は、静雄に優しくする気はないの?」 「……」 「いつも、いつも思っていたんだ。痛みに慣れ、愛に飢えている静雄だよ。そんな彼に、どうして愛をあげないんだい? 君は静雄を愛し、欲しているくせに、どうしてそんな茨の道を行くのかなぁ」 「だって、」 赤い瞳を筆頭に、臨也の顔はひどく真剣だ。 その顔のまま、彼は少し言いづらそうにぽつりと呟いた。 「俺の愛が飽きられたら、それこそ再起不能じゃないか」 「臨也……」 「……なに」 「ごめん、ほんとのごめん。僕、実を言うと、さっきまでちょっと楽しんでた」 「そんな同情の眼差しを向けられるよりかは幾分かマシだよ!」 叫ぶような臨也の声に、新羅は少し申し訳なくなった。 臨也、君は全然歪んだ恋をしてないよ。むしろピュアっぽくて少し気持ち悪い。 「まあまあ、ひとつ良いこと教えてあげるから」 「良いこと? はっ、これからの人生で、俺に一体なにか良いことが起こるのかなぁ?」 「君次第でね」 ヤケクソだった顔が怪訝そうに変わる。 新羅は指を三本立てて、「三日前」と口を開いた。 「臨也の情けない姿を見てみたいかと聞いたら、静雄は頷いてね」 「……ちょっと、なんていうことを話してるんだよ」 「まあまあ。だからさ、死んだ魚を大量に新宿に送ろうか? と案を出してみたんだ」 「…………」 セルティに止められたけどね。そう笑う新羅を見て、臨也は密かにセルティに感謝をする。 諸悪の根源はにっこり笑いながら、でもね、と小さく呟いた。 「静雄も全然乗り気じゃなかったんだよね」 「え、珍しいね」 「『俺が見たいのはそういうんじゃない』って。あと、」 「あと?」 「『魚がかわいそう』だって」 「……やっぱ珍しくないか。で、それがなに?」 げんなりした臨也に、新羅は微笑みを崩さない。我ながら、一筋縄でいかない友人を持ったものだ。 「それだけ」 「はあ?」 「強いて言うなら、もうひとつだ」 「何の?」 「僕が考えている、静雄の変化の仮説のひとつ」 「え……?」 臨也はひどく困惑した顔をする。意図するところがつかめないのだろう。新羅は冷めた自分のコーヒーを少し飲んで、喉を潤した。 「静雄は君の情けない姿を見たかった。けれど、ただ情けないだけじゃ駄目なんだ。それはある条件を満たしていなければならず、その条件を僕は知らない」 「……」 「でもさ、考えてみてよ。静雄は寂しがり屋で愛を欲している。そして、長年つきあってるからね、僕には静雄が愛を求めている相手がわかってしまうわけだ。それらを考慮すると、条件なんて自明じゃないか」 「……どこが? ちっともわからない」 「うん、わからないなら教えてあげる。静雄はね、君から愛されたかった。けれど、静雄に愛されていると知らない君は、自分に愛をくれない。しかし、君と静雄も長年のつきあいだから、静雄はうっすらでも君の愛に気づいていたのだろう。だから、君からの愛を諦めることができない。そう、せめて―――折原臨也が平和島静雄に醜態をさらしてまでも執着する、そんな情けない姿が見たかったんだよ」 赤い目を見開いた臨也は、少しの間身体を硬直させた後、慌てて新羅の家から出ていった。 挨拶くらいして行けば良いのに。新羅は中途半端に残った臨也のコーヒを見て、うっすら苦笑を浮かべる。 さて、臨也はハッピーエンドを掴みとれるだろうか? 妙なところで臆病で、一途な臨也だが、まさかここまで言われて引き下がりはしないだろう。 新羅はテーブルの上の臨也に出したコーヒーを見る。この位置にカフェオレが置いてあった時、正確に言えば、臨也が静雄の穏やかさに狼狽えた、静雄が帰る直前のあの時、静雄は間違いなく微笑んでいた。それも、すごく満足そうに。 臨也は静雄を甘く見過ぎだ。彼は、ただ感情的に喧嘩ばかりをしているわけじゃない。意外と頭だって良いんだよ。 新羅が全てのからくりに気づいたのは、実は静雄が「ありがとな」と言った瞬間であった。 新羅を捕らえる静雄の目。 新羅はその「ありがとな」という言葉が「こんな役回りを引き受けてもらって、ありがとな」と言っているのだと思えてならない。 彼はわかっていたのだ。新羅が臨也に自分の行動を事細かに説明すると。 それを計算して、すぐに実行した。三日という短い期間で、確実に臨也が焦り出すように仕向けて。 あの勘の鋭い臨也が気づかないほどに押し隠された静雄の恋心。 策を思い付いたら即座に遂行する機敏さ。 果たして、一番の策士は誰なのだろうね。ひょっとしたら、僕でも臨也でもないのかもしれない。 「まあ、静雄が頭を働かせるハメになったのは、明らかにひねくれた臨也のせいだしね」 精々、尻にしかれればいい。 愛をくれないのならば (愛を吐くように仕向けるだけです) 策士静雄がかっこいいな、というわたしの趣味から。 クールな静雄が大好きです。 back |