その裏庭にはいつも先客がいた。綺麗な顔をした、少年と青年の合間を行く男。ひょろりと頼りない痩身の彼は、何故だかいつもバーテン服をを身にまとい、サングラスをかけて、煙草を吸っていた。その顔はどこか寂しそうで、なんだか胸がキリキリ痛んだ。だから、柄にもなく話しかけてしまったのだろう。その時の彼の顔といったら、まるで幽霊を見たかのような瞳をしていた。 それから、この邂逅は習慣となった。お昼の鐘が鳴った後、そっと病室を抜け出して裏庭に行く。彼はいつも先に来ていて、裏庭にある古びたベンチに腰かけていた。そうしてこちらに気づくと、微かに笑う。とても幸せそうな色をした笑顔をこちらに向けてくれた。 そんな表情を見せられる度に、胸がぎゅっと締め付けられ、顔が熱くなる。だって、まるで愛の告白みたいな視線をこちらに寄越してくるのだ。彼の全身全霊が伝えてくる「愛している」に、俺はなすすべもなくうつむくばかりだった。いつだったか、そう、確かあれは彼と出会ってから二ヶ月になった頃だったと思う。そろそろ見慣れてきた彼の格好を、今更ながら「何でバーテン服を着ているのか」と聞いてみた。 すると、彼の顔の真剣みが増し、こちらをじっと見つめてきた。まるで、なにか見定めているような視線。びりびりと緊張感が張りつめる空気の中、俺は微動だにできなかった。 やがて、彼は「違うのか……」と呟くと、力なく地面に座り込んだ。わけがわからず彼の顔を覗き見て、俺はいくつかわかったことがあった。 理由も何もわからないけれど、彼は今確実に悲しんでいる。そして、もしかすると、その原因は俺にあるのかもしれない。どんよりと沈んだ雰囲気の中、彼は頼りない笑みを浮かべながらこう言った。 「バーテン服を脱ぐつもりはない」 これは弟から贈られた大事なものなんだって、知っているだろ? そう呟かれた言葉に頭がひどく痛んだ。 知らない。 そんなこと、知らない。何で彼がバーテン服を着ているのか、そのルーツは何か、何故俺が知っているというのだろう。 知らない。バーテン服が弟から贈られたものなんてことは。だって―――彼には弟はいないはずなのだから。 彼には双子の妹がいて、弟がいるなんて話は聞いたことがない。そもそも、何でお前がバーテン服を着ているのだ。いつもいつもバーテン服を着ているのは、弟からバーテン服を贈られたのは―――、 「落ち着いて、シズちゃん。ゆっくり考えてみようか」 ごちゃごちゃに乱雑した思考を、彼は優しく宥めてくれた。混乱でズキズキと頭痛が続く。こめかみの辺りを手で押さえれば、ガーゼと包帯の感触に触れた。 「整理しようか。きちんと道筋を立てて、今の君について語ろう」 彼はサングラスを外し、躊躇なく地面に投げ捨てた。蝶ネクタイも黒いベストもスラックスのポケットの中に入っていた煙草とライターも、全て自らから取り払い、放り投げた。残ったものは白いワイシャツと黒いスラックスのみ。その格好で、彼は俺のもとに歩み寄ってきた。 「覚えている? 君はいつものように喧嘩をして、頭を殴打された。血は流れなかった。脳に損傷はなかった。けれど、君はずっとここに留まり続けている」 ここ、とはどこなのか。桜が散り始めているこの裏庭か、それとも別のなにかなのか。はらはらと舞う花びらに、静雄はどうしようもなく焦燥を感じた。 いけない、早くしないと全て散ってしまう。 「そうだよ。早く戻らなきゃいけない。いや、戻ってきてよ。シズちゃん」 彼は泣きそうな顔をしている。いつもの不遜な態度とは程遠い表情。揺れる赤い瞳に、かちりと頭の中で何かがはぜた。 「お前は―――」 びゅうびゅうと強く吹き付ける風に、静雄の視界は白く白く染まる。ズキンと軽い頭痛の後、突然目の前が真っ黒に染まった。 「おはよう」 意識不明に陥ってから二十九日目にようやく目覚めた静雄を見て、新羅は普段と変わらない顔をして挨拶をする。まだぼんやりとした表情の静雄を見て、新羅は枕元にあるナースコールを鳴らした。 「さて、静雄。起きてばかりの寝ぼけた君には少し酷だけど、君にいくつか話がある。面倒な話がふたつ」 真っ白な病室の奥に、換気用の窓がある。そこからは桜が散りつつある裏庭が見えた。 「まず、早速だけど、君はしばらく検査漬けの生活が始まるよ。もしかしたら、後遺症や脳の損傷があるかもしれないからね」 窓からは古びたベンチは見えない。静雄がベッドに横になっているからか、はたまた建物の陰になってしまっているためか。 「もうひとつは、君の天敵野郎が、あまりに君が寝てばかりいるからっておかしくなっちゃって。最初ら辺は『一生寝てればいいのにね』なんて言ってたくせに、最近は黙って君の格好をして鬱々としているんだよね。どんどん殊勝じゃなくなっていくし、僕はもう驚愕しすぎてかえって笑いが込み上げて―――」 「裏庭」 裏庭に行かなければ。泣きそうな顔をして、臨也が静雄を待っているのだから。静雄はベッドから体を起こし、新羅の静止も聞かず、よろめきながら病院の階段を下る。約一ヶ月も使われていなかった筋肉は静雄の言うことを聞いてくれなかったけれど、拙い足取りには確かに確固たる意志があった。 裏庭 |