帰り際に門田からもらった本を模した紙束は、どうやら異国の楽譜らしい。帰ってから早速デリックにピアノで弾いてもらうと、そのメロディからは知らない国の香りがした。

「これは、多分、西の方の国の音楽ですね」
「西?」
「ここからあまり遠くはない、船で二日ぐらいで行ける国です」
「そうなんだ」

日々也は瞳を閉じて、その聞きなれない音楽に耳を傾ける。この音楽を作曲したのはどんなひとなのだろう。なにを考え、どういう思いでこの曲を書いたのか。誰のために書いたのか。その誰かとはどういうひとなのだろう。噴水のように湧き出る疑問の数々は、日々也の瞳をギラギラと光らす。知りたい、知らなければ。好奇心と王子としての責務は綺麗に混ざり合って、あるひとつの終着点へと導かれる。
日々也はデリックを見る。何よりも美しく、日々也の一番の重要事項である愛しいひと。気がつけば、彼のことをこちらに抱き寄せていた。

「日々也様?」
「ごめん、ちょっとだけだから」
「何を言っているんですか。いくらでも構いませんよ。ちっとも嫌じゃありませんから」
「じゃあ、もっとわがまま言って良い?」
「私のわがままを聞いてくれるなら」

デリックはにっこりと笑う。彼がわがままを言ったことなど、今まで一度とすらあっただろうか? 日々也はきょとんとしつつも、「何?」と戸惑いながら聞いてみた。

「キス、してください」
「え……」
「優しい、すごい紳士的なキスを。そうしたら、あなたの言うことなんでも聞いてあげますよ」
「なんでも……」
「そう、なんでも」

だからほら、早くお願いします。
ひどく色っぽい桃色の瞳に、日々也は苦笑した。そんな挑発的な目をされたら、優しいキスじゃなくてうっかり獣のようなキスをしてしまいそうになる。
けれど、可愛い恋人の頼みを聞かないわけにはいかない。日々也はデリックの頬を優しく撫で、ゆっくりと彼の赤い唇に自分のそれを重ねる。触れるだけの、音のない静かなくちづけ。それはなんだか、今までで一番大人びた、それだけで愛を語り尽くしてしまえそうなほど深いキスだった。
唇を離すと、デリックは「なんてことをするんですか」と小さな声で抗議をしてきた。

「あまりにも素敵なキスすぎて、呼吸がうまくできません」
「それなら、呼吸なんか気にならないくらいのキスをしよう。どうせ呼吸ができないんだ。息継ぎなんて、いらないよね?」

返事はデリックからのキスだけで十分事足りた。











窓の外は真っ黒。空を見上げれば散り散りに星が舞っていて、その中で一際月の輝きが美しかった。
静かな夜。愛するひとは日々也の寝台で穏やかに眠っているし、ふくろうの声すら夜闇に紛れてこちらまで届かない。ひんやりとした温度にふるりと体を震わせつつ、日々也は窓から外に出ようとした。

が、それはあえなく失敗に終わる。

背中に感じる暖かさ。すっかりお馴染みの香り。思わず体の芯が疼くほど、今の状況は幸福の一言に尽きる。

「捕まえた」

ああ、やっぱり、彼を出し抜くなど俺には無理だったのだ。日々也は後ろから抱きついてくるデリックに色々な意味でため息を吐いた。さて、早く離れてもらわないと、こっちが離れられなくなってしまう。日々也は意を決してデリックから距離をとろうとするが、「離れないで?」という彼の甘い言葉にそれすらも失敗した。くすくすと笑うデリックに、日々也はぶつぶつと悪態吐く。仕方ないではないか。好きなひとにこんなことをされて、そんなことを言われて、突き放せるような人間なんていない。

「……デリック、見逃して?」
「それはいけませんねえ。あなたの家出を見て見ぬふりをすれば、王に責められるのは私ですから」
「何で、俺がこの城を出ようとしているとわかったの?」
「馬鹿にしないで下さい。門田から異国の話を聞いた時のあなたの顔色の変化を、私が見落とすとでも思いましたか? あなたは異国のことを知りたいのでしょう? その目で、世界を見たいのでしょう?」

だって、日々也はまるで無知なのだ。日々也の世界はこの美しく穏やかな母国だけで構成されており、それ以上の広がりはない。厳しい現実も残酷な風景も、なにも知らない。
それではいけないのではないか。日々也はもっと多くのことを知り、学び、それを生かして国の明日を作る責任があるのだから。そして何より―――お坊ちゃんなだけでは愛する家臣を守ることができない。

「机と本だけでは不十分なんだ。ちゃんと改竄されていない真実を見なければならない。俺がのんびりと朝の森を散歩している間に、異国ではなにが起きているのかちゃんとわかっていたいんだ。それが俺の国を守ること、そして、君が愛してくれたこの湖の国を守るために必要なんだ」

一国の王子としてではなく、ひとりの人間としての渡航。そんなことをこの城の人間は許してくれるはずがない。けれど、厳重な護衛をつけられての旅など、本に挿し絵が加わった程度のことしか知れない。脚色のされていない真実は、危険のおそれがあるからこそ見えてくるものではないだろうか。
日々也の必死の言葉に、けれどもデリックは首を横に振るばかりだ。

「駄目です。危険すぎる。だからあなたの家出は、今すぐ王に報告に上がらせてもらいます」
「デリック!」
「当たり前でしょう? 私はあなたを危険に晒したくないから、あなたに嫌われようが黙って見過ごすつもりはありません。まあ、もっとも―――」

デリックはにやりとひどく魅力的に笑って、悪戯を誘うような少し子供染みた瞳で日々也を見た。


「あなたが私を家出に連れていくのなら、私は王に告げ口をしに行く暇がありませんけどねぇ」


しんと静まりかえる室内。けれど、日々也は自分の心音がうるさいくらいに高鳴っているのを感じた。目の前には愛しいひと。彼はとても素敵な選択肢を、日々也のために用意してくれた。

「……どうしよう。今こそ君をめちゃくちゃに愛したい」
「しばらくお預けです。ほら、夜が明けぬ前にここから逃げなくちゃいけないんですから」
「それを言われたら、家出をしたくなくなっちゃうよ」

日々也はそう言いながらも、てきぱきとデリックの分の荷造りをし始める。デリックはそれを見ながら、心の中で静かに呟いた。

あなたの言うことはなんでも聞いてあげましょう。あなたが行く場所ならどこまでもついていきます。あなたがそれに気を揉む必要はない。対価は、さっきもらったばかりだから。
デリックはそっと自らの唇に触れる。そこには先程の日々也からの素晴らしいキスの余韻が残っていて、いつまでもデリックの身体を冷ますことはなかった。










そうやってこの湖の国で、あなたと未来を創っていきましょう。








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