まだ港町の中に入っていないのに、微かに潮の香りがした。日々也は幼いころあまり身体が丈夫ではなかったから、必然と城から少し遠い港町には馴染みがない。彼の故郷のイメージは森と広大な湖であり、海にはどこか見知らぬ国のような感覚を持っていた。 だからなのだろう。父が日々也に港町への視察を勧めたのは。今回の視察は、机の上に齧りついているだけではわからないことを日々也に学ばせるためのものなのだ。港町を知るということは、つまり貿易を知ること。更に言えば、諸外国について学ぶことでもある。日々也が将来国を背負っていく時、何よりも大切なのが、いかに諸外国に侵略されないかということ。しっかりと外交を行うためには、王となる日々也もしっかりと諸外国についての情勢を知っておかなければいけない。 港町の近辺までたどり着き、日々也がいざその地に足を踏み入れようとした時、デリックがそれを制した。不審に思ってデリックを見れば、彼は日々也に馬から降りるようにと言い、キョロキョロと辺りを見渡して、「ちょっと待っていて下さい」と言ってどこかに行ってしまう。しばらくして、デリックはひとりの女を連れてきて、彼女にふたりの馬の手綱を握らせた。どうやら彼女は港町の隣村の娘らしい。 「日々也様、これを」 渡されたのは質の良くシンプルな衣服。なるほど、今回の視察はお忍びらしい。いくら治安の良い日々也の国でも、港町には色々な人間がいる。一歩間違えば、他国の人間に捕まり、捕虜とされるだけの価値が日々也にはあった。 「少し、緊張するね」 「そうですね。それはきっと、あなたがまだ他国のことを知らないからでしょう。あなたにとって、港にはたくさんの得体のしれないものがある。それを知り、万全に備えておくのがあなたの仕事です」 「手伝ってくれるかな?」 「もちろん。私はあなたとあなたの国に全てを捧げておりますゆえ」 恭しく一礼をしてくるデリックを見て、日々也は静かに頷く。そして、港町へと足を進めた。 庶民が着るような軽装は思いのほか動きやすかった。日々也は隣を歩くデリックを見る。白い綿のシャツと、動きやすそうな焦げ茶色のズボン。いつものピンクのシャツを着ていないデリックはデリックで、とても綺麗だなと少しばかり見惚れてしまった。 「……日々也様」 「なに?」 「あなたが見るべきなのは町であって、私ではありません」 「えー、少しくらい良いでしょ?」 「家に帰ってからでも私のことは見られるでしょう?」 「それはそれ。これはこれ」 はあ、とため息を吐くデリックの頬は微かに赤い。そんな素敵な顔をされたらますます目が離せなくなってしまうのだけれど。日々也はそう思いつつも、自分を叱咤して、じっと町の風景を見渡してみた。 活気ある人々。時折すれ違うひとの中には不思議な色の目を持っている者もいた。城のある王都は芸術の町として玲瓏たる美しさを持っているが、港町にはエキゾチックな輝きがある。珍しい食べ物や小物を見るたびに、わくわくとどこか楽しい気持ちが沸き出てきた。 反面、あまり見たくないものも視界にかすむ。 異国の商人が連れている奴隷、酔っ払って周囲に怒鳴り散らす若い船員、路地裏の怪しい人影。この国で一番新しいものが入ってくるこの場所は、どこよりも開放的なのだろう。それが良いことか悪いことか、日々也はちゃんと知らなければならないのだ。 人気の少ない路地裏に入ると、南の方の国生まれの商人が何人かたむろしていた。デリックが舌打ちする。ということは、これは結構まずい状況なのだろうか。 「お、あんたたちこの国のひと?」 ひとりの男が日々也に声をかけると、次々に周りにいた彼の仲間も集まってくる。誰もかれもが一様に胡散臭い。日々也が返答に困っていると、デリックが日々也の前に出た。 「そうだ。あんたたちは南の商人か?」 「ああ。香辛料を運んできた。なあ、あんたの後ろにいる男はさ、どこかのお坊ちゃんかい? そんで、あんたがそいつの家来かなにかなのか?」 「どうしてそんなことを思ったんだ?」 「あんたたちは平民らしくないと思ったからさ。そういえば、この国の王子様も確かその坊ちゃんぐらいの年頃だったよな」 気付かれただろうか? 日々也は背筋が寒くなる。必死にポーカーフェイスを保っていると、それの達人であるデリックは、まるで花が咲いたかのように美しく微笑んだ。 「うちの坊ちゃんがこの国の日々也王子と間違えられるなんて、光栄の至りですね。坊ちゃんの世話役である私も浮かばれるものです」 「ふん、ただの貴族のガキか」 日々也王子だったら捕虜にでもできたんだがな、と男が言うと、デリックはにっこりと笑いながら男のすねを思いっきり蹴り上げた。 「なっ、てめえ!」 「あなたのお言葉は我が国への侮辱です。この国の一国民として、その言葉を許すことはできませんね。たとえそれが冗談だとしても」 「お前、調子に乗ってんじゃ……」 「もし、あなた方が本気でそのようなことをおっしゃっているのなら、もう二度とこの港に訪れられないようにすることも可能なのですよ? まあ、あくまであなた方が本気であるならば、の話ですが」 冷たく射抜くようなデリックの瞳に、男たちはたじろぐ。しばらくのにらみ合いの後、ひとりが逃げるように路地裏を後にすれば、蜘蛛の子を散らすように周りにいた男は全て立ち去って行った。 柄の悪い男たちをひと睨みで追い払う。やはり、デリックはすごい。日々也がそう感心していると、デリックは「申し訳ありません」と頭を下げてきた。 「何で? どうして謝るの?」 「……私があの男を蹴るのを我慢すれば、確実にあなたの安全が保障されました。それなのに、あなたを、不必要な危険に晒してしまった」 「謝る必要はないよ。むしろ、デリックが怒ってくれたのは嬉しかったよ。愛されてるなあって思えて」 「けれど……」 しゅんと落ち込むデリックに、日々也はどうしようかと思案しつつも、なんだかしょげたデリックは可愛らしいなと呑気なことを考える。すると、急に頭上からぱちぱちと拍手の音が聞こえた。見上げると、古びた部屋の窓からひとりの男が手を叩いていた。 「彼が言っている通りだと思うぞ」 「門田!」 「久しぶりだな、デリック。そして初めまして、日々也様」 「カドタ、さん?」 デリックは門田を見つけると、「ちょうどよかった」とさっきまでの落ち込んだ顔を一変させて笑った。 「せっかくです。商人である門田に異国の商品を見せてもらいましょう」 「俺はデリックと同郷なんだ」 門田はそう言いながら、薄暗い室内に日々也とデリックを招き入れた。ここは門田が泊まっている宿らしい。古びているが室内は清潔で、広さも結構あった。彼はここで、仲間の帰りを待っていると話してくれた。 「今、俺の仲間が商品を売りに行っちまってるから、手元にあんまり種類はないが」 門田はそう言うと、大きな鞄から様々なものを取り出した。不思議な色をしたガラス小物、見たことがないような種類の染め方が施された美しい生地、飴色をした簪。特に本はたくさんあって、そのどれもが知らない言葉で書かれていた。 「これは半分は俺の趣味だ」 「もう半分は?」 「やっぱり商売だな。医術の本から他国の物語まで、ジャンルは様々ある。それを暇な時に別の言語に訳して売っている」 船旅は暇だからな。門田は簡単にそう言うが、翻訳は決して容易な仕事ではない。だからこそ、翻訳した本はよく売れているのだろう。城にも時折、異国の本が届けられる。 「うち国のひとたちはなかなか読書好きだからね。結構商売になっている?」 「ああ。新しい芸術や科学の本が手に入るたびに、この国に売りに来ているよ。まあ、本を仕入れるためには、他にも色々な国に回る必要があるけどな」 「……そうなんだ」 「まあ、どこの国へ行こうが、この国よりも安全で幸せな国はないと思うぜ。良い国に生まれたな」 門田はデリックの方をちらりと見て、薄く微笑んだ。良い国を見つけたな。その言葉を門田は口にはしなかったが、デリックは「ああ」と頷いて、門田に手を差し出した。 しっかりと握られるふたりの手に少しやきもちを焼きながらも、日々也は静かにあることを考えていた。おそらく、これからの自分の人生に大きな影響を与えることとなるだろう、あるひとつの考えとその決断を。 |