大切にされ、一番の待遇を受けるということはなんて辛いことなんだろう。だって、そのポジションから滑り落ちた時、こちらには哀しみしか残らない。その哀しみがすぐ目先にある事実ならば、俺はあのひとの一番になどなりたくなかった。ただの一介の臣下として、日々也の目に留まらない存在であればよかったのだと思ってしまう。
デリックは冷えた体をぶるりと震わす。昨日はどうにも眠れなくて、結局寝台に入らず窓の傍でぼんやりと過ごしていた。輝く朝日が眩しかったが、それでもデリックは窓の外から目を離さない。
姫、日々也の中心。ああ、なんて甘美な言葉なのだろう。日々也を恋焦がれる心は、その言葉にどうしようもなく乱された。デリックは姫になどなれないのに、それでも日々也はデリックを一番扱いする。

(もう、限界だ)

大好きで大好きでたまらないひと。デリックに恋心を諦めさせてくれないひと。愛しさも憎らしさも頭の中をぐるぐる回る。
こんな状態で、日々也に会うわけにはいかなかった。今彼に会えば、昨日彼の前で泣いたこと以上の醜態を起こしてしまうだろう。もうこれ以上、馬鹿な真似はできない。それを誰よりも自分が許せない。

だから、デリックは今日の仕事を無断で放棄したのだ。











いつもと異なり、朝の席で日々也に紅茶を淹れてくれたのはメイド頭だった。

「あれ? デリックは……」

メイド頭は一度口をつぐみ、きょろきょろと日々也と王夫婦の顔を見る。何かを察したらしい王が「誰のことも咎めないよ」と言えば、メイド頭はほっと息を吐いた。

「実は、今日はまだ、デリックのことを一度も見ていないんです」
「そうなんだ」
「あのひとのことだから、絶対になにか理由があるんでしょう。あのひとが怠惰に仕事を放棄するなど考えられませんから。だから黙っていようと思ったのですが、あのしっかりしたデリックが思い悩むほどです。私達使用人らがどうにかできる問題ではないと」

メイド頭がちらりと日々也たちを見る。その目は期待や懇願がない交ぜになっていた。
王は顎に手を添え、「うーん」と唸る。

「まあ確かに、僕もセルティも日々也も、この城の中では君たちよりデリックと親しいからね。よし!」

王はくるりと日々也の方を向き、にっこりと食えない笑みを浮かべた。

「ほら日々也、さっさとデリックの自室に行っておいで」
「え!」
「どうせ君がなんかしたんじゃないの? あの真面目なデリックが仕事をサボタージュするくらいだ。余すことなく君だけが悪いに違いない」
「……身に覚え、ないんですけど」

けれど、実のところ、日々也は昨日のデリックの涙のことが気にかかっていた。泣き声も立てず、ぽろりと一筋だけ流れた涙。それがかえって、全ての激情を凝縮した一滴に見えた。だから日々也は朝食も摂らず、ひとりデリックの自室へと向かうことにした。
到着したデリックの部屋の前で、日々也はしばらく黙って立っている。物音が全くしない。もしかしたら、彼は体を壊して寝込んでいるのかもしれない。日々也はゆっくりと一度深呼吸をして、ノックを二回だけした。
返答はない。試しに扉を開けようとするが、しっかりと鍵がかかっていた。

「デリック? どうかしたの」

日々也はもう一度ノックをしながら、今度は一緒に声をかけてみる。すると、部屋の奥から物音が聞こえた。それに日々也は少しだけ安心し、更に言葉を続ける。

「デリック、寝坊なわけはないよね? それとも、風邪引いたのかな? なんにせよ、君の顔を見たいんだけど」
「な……で」
「え」
「なんで、俺の顔なんか」

デリックの「俺」という一人称に、日々也はおや? と首を傾げる。彼は普段はとても綺麗な言葉遣いをするけれど、以前一度だけ感情を高ぶらせた時、その「俺」という一人称を使っていた。つまり、今の彼は、お得意のポーカーフェイスが崩れるくらいに冷静さを欠いている。
どうしたのだろう。日々也はそう疑問に思いながらも、とりあえず問われた問いに素直に答えてみた。

「なんでって、君を愛してるからだよ」

愛するひとの顔を見たいと思うことは、至って自然なことだろう?
日々也がそう言うと、デリックは泣きそうな声で「やめてくれ」と言った。

「やめてくれ、もう限界だ。そうやって俺を愛すのはもうやめてくれよ。いっそ、俺のことをもう見ないで」
「なんで、そんなことを言うの? そんなの無理だよ。やめられるくらい簡単な感情じゃないからね」
「嘘だ。そんなの嘘だ。あなたは今は確かに俺のことを愛してくれるのでしょうよ。けど、それはいつまでの話なんだ? いつから俺はお前の一番から引きずり落とされる? 頼むから、いっそもう、俺のことを愛すのをやめてください。ズルズルとあなたとの関係を続けていても、そう遠くない未来に脅えるばかりでちっとも幸せを感じられないんです」

彼はなにを言っているのだろうか。そんな取り乱した声で、泣いていると丸わかりな声で。
日々也は扉をドンドン叩く。開け、開けよ。状況が全くわからないが、このままじゃあ悲しんでいるデリックの涙をぬぐいにいけないじゃないか。泣かないで、泣き止んで。お願いだから。そう言いながら扉を叩いていると、ふと脳裏にさっきの彼の言葉が過った。
そう遠くない未来。
それはどういう意味か。日々也は必死に心当たりを探し、やっと先日の父との会話にたどり着いた。

「デリック、君、もしかして俺の婚約者の話のことを言っているの?」

ぴしりと張りつめた空気に、日々也は自分の言葉が正しかったのを知る。そして、ほっとした。

「デリック、安心して。婚約者の話なら断ったから。元々、父もあまり気乗りじゃなかったんだよ。ただ、世間話みたいな感覚で話していただけで」

日々也は笑いながらそう話すが、デリックは一向に扉を開けてくれない。それどころか、「今、なんて言いました?」と震える声で尋ねてきた。

「え、だから、婚約の話は無しになったって……」
「なにを、あなたはなにをしているんですか!」
「デリック?」
「それは、私のせいで? 私があなたと恋人であるから、あなたは婚約の件を断ったと?」
「そうだよ」
「なんということを……」

扉越しだが、デリックからキッと鋭く睨まれたような気がした。

「あなたは一国の王子。そして、いずれは王となられる御身分。国のためを思うならば、私などは切り捨てて、与えられた宿命を果たしなさい!」
「それは、君を捨て、女に子を産ませろということ?」
「多くのひとがそれを望んでいるのです。王となるあなたが世継ぎを作ることを」

だから、とデリックは今まで日々也が聞いた中で一番厳しい声を出して言い放った。

「私を捨て置き、自らの使命を果たしなさい」











終わりだな、と思った。日々也に冷たく言い放ち、彼がデリックの部屋の前から足早に立ち去った足音を聞いた時、それはもう確信に至っていた。
デリックはようやく涙を流す。泣きながら「俺を捨てないで」なんて言えたらよかったのに。やはり、デリックにはこれでも高貴な血が流れ、それゆえに王族としての考え方に雁字搦めにされているのだろう。自分の出生も考え方も何もかも卑しければよかった。そうすれば、恥も外聞もなく、ただあのひとを愛し、愛されることができただろうに。
好きだった。いや、今でも好きでたまらない。こんなにデリックのことを愛し、笑いかけてくれるひとはもういないだろう。あのひとになら、なにをされても抵抗がなかった。

デリックは窓枠に座る。窓からは綺麗な空と、城下町が見えた。その先には港があるはずだ。デリックは活気の溢れた港を思い起こし、日々也にこの城から出ていくように言われたら、どこかまた別の国へ行こうと海の向こうに思いを馳せた。その時だ。
なんの前触れもなく、いきなり部屋の扉が蹴破られる。驚いて見ると、そこには紫色のチューリップを山ほど持った仏頂面の日々也がいた。彼は澱みない足取りでデリックのすぐ目の前まで来て、たくさんのチューリップをデリックに押し付ける。

「ひ、びや様。こんな多くのチューリップ、どうしたんです?」
「今摘んできたんだよ」
「えっと、手ずからですか?」
「当たり前だろ。これは俺の君への気持ちなんだ。他の人間を仲介に入れるつもりはない」
「気持ち?」

デリックは紫色のチューリップの花束を見る。花言葉は、確か―――、

「確かに俺は王子だ。それゆえ、世継ぎを作るのは大仕事のひとつだよ。けどね」

日々也はデリックの前にひざまずき、彼の白い手に唇を寄せる。じっと熱っぽくこちらを見つめてくる日々也の瞳は、何度見てもデリックの身を焦がすくらいの威力を備えていた。

「俺は永遠の愛を君に捧げる。君を失うくらいなら、その他の全てを捨てよう。本当に欲しいのは君だけなんだ」

デリックは思わず、ぽろりと一粒の涙を流してしまった。もう、なにも言えない。嬉しすぎて、モラルなんてどこかに捨ててしまった。愚かだと、卑しいと罵られても、そんな言葉はきっと全く気にかからない。今ならば、死んでもいいとすら思った。
デリックは腕の中にある紫色のチューリップを見る。花言葉は「永遠の愛」。それを見れば、不可抗力にも瞳が潤んだ。

「……本当にあなたは、この国の歴史上随一の愚君になるでしょうね!」
「大丈夫。愚君の最愛の臣下は優秀だから。君がいてくれるなら、この国は安泰だよ」

ぽろぽろと流れる滴を、日々也は優しくぬぐってやる。くすぐったそうに笑うデリックは、朝の光に照らされてきらきらと美しい。たくさんの紫色のチューリップが、更に彼を彩っていた。

「ふふ、なんだか結婚式みたいですね」
「え?」
「紫色のチューリップが指輪代わり。ぴったりでしょう?『永遠の愛』なんて」
「……あー」

日々也はデリックの言葉に、苦笑しながら頭をかく。なにを言い澱んでいるのだろう、とデリックが首を傾げれば、日々也は懐から何かを取り出した。

「これ……」
「チューリップだけでそんなに喜ばないで。ちゃんと指輪を用意しているんだから」
「なんで。チューリップはともかく、指輪はすぐに用意できないでしょう?」
「……父にからかわれるのが嫌だったんだ」
「え?」
「『指輪なんて贈って、君はやっぱり独占欲のかたまりだね』って。だから君に渡す為に作ったは良いけれど、なかなか渡せなかったんだ」

指輪で恋人を縛ろうという考えは確かに独占欲の強いような行為だけれど、きっとこの指輪はふたりがこれからもずっと一緒にいられる証となってくれるだろう。

「これは君が俺のものだという証だ。そして、」

日々也は片方の指輪をデリックに渡す。そして、自らの左手をデリックに差し出した。

「それは俺が君のものだという証だ。さあ、指輪の贈答式と行こうか」

小鳥が歌を奏で、外からは甘い花の香りがそよ風に乗ってやってくる。朝日に照らされながら、今、永遠の愛が誓われた。
そのひどくわがままで自分勝手な約束は、けれど周りにあるチューリップの花や指輪やきらめく朝よりも、遥かに美しく輝いていた。









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