日々也のご褒美として与えられた休日は終わり、翌日からは容赦のないスケジュールが待っていた。苦行のような執務に追われながら、日々也は時折デリックに目を走らせた。 動揺していたのは昨日だけだったようで、さすが日々也の臣下に選ばれただけあって、今もそつなく補佐をしてくれている。昼食時に淹れてくれたお茶も、僅かな休憩時間に聞かせてくれたピアノも、いつもと変わらず素晴らしい。日々也は改めてデリックの有能さに感心した。 けれど有能だからこそ、彼は今まで苦しんできたのだ。 日々也は昨日のサイケとの会話を思い出す。寂しそうな顔をしていたサイケは、早朝のうちにこの城から出ていってしまった。元々長居するつもりはなかったらしい。そんなことを、父から聞いた。 「デリックのことを頼みます、なんて頭を下げられちゃった」 あの子はしっかりしすぎてるから、なかなか世話を焼けないんだよね、と苦笑する父の言葉が頭の中に響く。 そう、その通りだ。デリックはとても聡明だから、日々也はいつも助けられてばかりで彼のことを助けてやれない。自分の無力を痛いほどに痛感した。 早く大人になりたい。有能すぎて休むことができないデリックに一息つかせることができるくらいの賢君になるのだ。甘えることが不得手な彼を、ぎゅっと抱き締められるくらいの余裕を持ったひとに。 「日々也様、そろそろご休憩を……」 「いらないよ。まだまだやらなきゃいけないことが山積みだからね」 そう言ってにこりと笑う日々也を見て、デリックはきょとんとした。周りのメイドや古参の臣下もぽかんとしているのを横目に、日々也は優雅に芳しい紅茶をひとくち飲んだ。 「むかしむかしあるところに、とても大きい強国がありました。現存する国家の中で最も美しいと名高い国や、東西交流が激しくて多文化が栄える文化の国と同じぐらい知名度の高いその国は、残念ながらたくさんいる妻子の間で勃発した世襲争いで、幾人もの王子が暗殺されていました。これを憂いた王は、正室の長子を安全な場所に匿うことにしたのです。 ところで、王にはたくさんの妃がいましたが、愛した女性はひとり、誰よりも信頼している右腕のような存在の女性がひとりいました。前者が身分の低い妃、後者が正室でした。身分の低い妃は世襲争いに参加するほど有力視されていなかったので、彼女は彼女の子供と田舎にある離宮で暮らしていました。 そこに、王はこっそりとまだ赤子である正室の長子を身分の低い妃に渡しました。正室の了解ももちろんとっています。正室の今まで授かってきた子供は、どれほど厳重に保護しようとも、陰謀によりみんな暗殺されてしまったからです。 そうして、幾年も過ぎ、相続争いもやまずに年月ばかりが悪戯に過ぎていきました。そこで突然、正室がクーデターを起こし、王を殺すも失敗しました。正室は兵に捕らえられ、正室の長子が匿われているところにも兵が迫ってきています。正室がクーデターに失敗したとなったら、兵たちがとる行動はひとつ。本来最も王権相続に近い長子を殺し、今まで埋もれていた妾の子を王にする。それが正室の長子と妾のように身分が低い妃の子が知った、今後の未来でした。 それを受けて長子は逃げ、妾の子は王になり、ようやく大陸の強国に平穏が訪れました。ちゃんちゃん」 サイケは語りを終え、胸元から見覚えがある家紋を彫った懐中時計を出した。どこの国のものか、それは誰が持つべきものか、日々也は何度も何度も家庭教師に教えられた。これから王になる日々也が、最も警戒しなければならない相手。もし力のない自国が征服されそうになったら、必死な交渉を行わなければならない相手。 けれど日々也は躊躇わずに、あっさりと疑問点を口にした。 「で、君とデリック、どっちが正室の子でどっちが妾の子なの?」 その日々也の言葉に、サイケはにっこりと笑う。 「よかった。日々也くんは暗愚な王子さまじゃないんだね。君になら、デリちゃんのことを任せられるよ」 サイケがこの国に来た理由は、異母兄弟であるデリックの安否を気にしたため。日々也はようやく全ての疑問点を納得した。 サイケがこの国の王である日々也の父に容易く会えたのも、デリックをあれほど動揺させたのも、全てはいまや強国の王であるサイケだからこそ可能だったのだ。 「デリちゃんはさ、言ったんだ。『お前は長子としての正統な血を持っている。継ぐ権利はお前が持っているんだから、俺が逃げてお前が王になればいい』って」 最初から、デリックには王になる気などなかったのだろう。権力から遠い身の上だったからこそ、権力に囚われない心根を持つことができた。 けれども、サイケは自嘲しながら投げやりに言った。 「……ばかなデリちゃん。いくら長子が殺害対象になったからって、なにも妾の子を正統な相続対象にするわけないのに。デリちゃんのお母さんはね、妾なんかじゃなかったんだよ。他国のきちんとしたお姫様で、本当の正室だったんだ。俺と母さんはそれを隠すためのカモフラージュだったんだ。それを知ったから、母さんは王を殺し、全てを知っていた筆頭の臣下たちは、デリちゃんを王にしようとしたんだよ」 全ての執務を終え、食事やゆあみを済ませると、もう深夜になっていた。しかし、日々也はベッドに入らず、自室から出た。暗がりの廊下を通り、ノックもなしに恋人の部屋に入る。恋人はにっこりと笑顔で日々也を迎えてくれた。 「お疲れ様です、日々也さま」 右手にはワインのボトル。グラスを使わず、らっぱ飲みをしていたようだ。唇が赤ワインで紅を塗ったかのように色づいており、日々也は思わず喉を鳴らした。 デリックは笑みを深くし、おいでおいでと手招きをしてくる。それに従えば、甘くて色っぽい極上の笑顔を日々也にくれた。 「日々也さまは、逃げたことあります?」 「……何から?」 「責任と重圧から」 デリックはその辺に転がしておいた未使用のグラスに赤ワインを注ぎ、綺麗な舌を伸ばしてそれを舐める。甘いな、と言った彼こそ、どこもかしこも甘くとろけているように見えた。 「大きなものも重たいものも欲しくなかった。それは私が無欲なのではなく、ただ単に、その重みに押しつぶされてしまうのが怖かったからです」 デリックの母親は、なにかがあった時の為の逃げ場を用意していた。彼女にとって、デリックもサイケも大切な子供だったから、どちらが王になってももう片方が安全でいられるようにと、「実家」に事前にお願いをしていた。そこで、デリックは母の兄である、とある国の王にお願いをした。誰でもいい。誰か、王に仕えたいと。 「ずっとずっと、遊んでいられたらよかったですね。毎朝歌いながら散歩をして、難しい勉強を乗り越えれば大好きな音楽の時間。母と使用人の手伝いをして作った夕飯は、もう二度と食べることが叶わない」 ワインをあおり、遠くを見つめるデリックの瞳に映っているのは、過去の残像か。日々也は黙って懐から少し萎れたラベンダーを取り出した。途端に、辺りに微かなラベンダーの香りが充満する。 「ねえ、デリック。花言葉は知っている? 残念ながら俺は君を手放す気はないから、この花の送り主には丁重に断っておいたけど」 あなたの帰りを待っています。 デリックはぽかんとして、ワインに濡れた唇を微かに震わせる。かたかたと指先が揺れ動くが、こんな時までデリックはポーカーフェイスを崩さない。 常に冷静でいようと気張る彼が可哀そうで、そして愛しかった。 「馬鹿。せっかく会いに来てくれたんなら、ちゃんと手渡ししてくれればいいのに」 好きなひとができた、これからもずっといたいと思える国ができた。美しい湖や、天気によって様子を変える森、足の早い馬や綺麗な水で淹れた美味しいお茶。報告したいことはやまほどあった。昔みたいに、笑い合いながら話がしたかった。 必死に涙をこらえるデリックに、「そういえば」と日々也は優しい声で語りかけてきた。 「デリックはまだ知らないかもしれないけど、この国は切手と便箋のデザインも美しいと好評なんだ。でも、その割りにはあまり有名ではない。そこで、よかったらさ、俺の代筆でかの大陸の国に手紙を書いてくれないかな? かの国と友好関係を築くのに、交易物の増加はとてもいい手段だと思わない?」 だから、もう悲しまないで。日々也はそう言って、デリックをぎゅっと抱き締めた。 愛するひとの苦しみを溶かすことができるのなら、日々也は今できる精一杯を行使しよう。そう決意した日々也には、もうのんびりとしていた王子の風情は見当たらなかった。 |