暖かな森の中、乗馬をしているふたりの人影だけが際立って存在している。湖から城へと戻る途中、行きとは違う美しさを放つ森林をデリックはとても楽しそうに観察していた。てっぺんまで登った太陽の強い日差しが、葉の間からわずかにふたりを照らす。木漏れ日の暖かさは、デリックにはあまり馴染みのあるものではなかった。

「気に入った?」

余程木々に見入っていたのだろう。日々也はデリックにおどけるような口調で尋ねてきた。その言葉の端々には、自分の国の美しい自然に対する誇りがちらちらと垣間見える。

「……素敵です」

森と日々也、そのどちらもが。
本当に素敵なことだ。彼は心から自国を、ふるさとを愛している。そんな日々也が、デリックには眩しく思えた。

「俺はこの国から出たことがないけれど、他国からの賓客のこの国を見る度に輝く瞳を見れば、自分の住んでいる場所がどれだけ美しいところかよくわかるよ」
「そうですね。私も、この国以上に美しい国を見たことがない」

自然の作り出す美しさだからこそ、ここまで素晴らしい情景を作り出せる。四角い建物が並ぶひたすら機械的な街は、デリックの目にはまるで墓石のように映ったものだ。
まるで死の街。どうしてそんな殺伐とした場所を愛すことができようか。愛国心を持てないのは、ひとえにデリックのせいだけではない。

「へえ、君でもそう思うんだ。じゃあさ、君の故郷は―――」

どんなところだったの、と続く言葉は、前方から響く騒ぎによって打ち消される。そのいつにない荒々しい雰囲気に、日々也もデリックも驚いて騒ぎの中心を凝視した。
城の城壁がすぐ見えるところで、数人の衛兵とひとりの少年が言い合いをしているようだ。しかし、よく見てみると、少年はいきりたった様子もなく、にこにこと穏やかな表情をしている。そのまだ少し幼げな顔は、どこかで見覚えがあって―――、

「あ、お、王子!」

衛兵がこちらにいる日々也を見て、助けを求めるようなひたすら困惑した顔をしてきた。そんなすがるような目をされても、日々也だって困ってしまう。自分の目の前に、数年前の自分にそっくりな少年がいて、果たして日々也は彼になんと声をかければいいのだろうか。
だが、そんな日々也の心配を余所に、少年の方から駆け寄ってきてくれた。少年が話しかけたのは、日々也ではなくデリックだったけれど。

「デリちゃん!」

少年は日々也より小柄な身体で軽快に跳躍して、馬に乗ったデリックに抱きついた。呆然としたデリックは、その衝撃のままに馬から落ちてしまう。それを見て、日々也は慌てて馬から飛び降りた。

「デリック!」

近寄れば、背中から地面に落ちたデリックと、その上に乗っている自分より年若な少年がいた。少年の顔は本当に無邪気で嬉しそうで、日々也は彼がデリックを落馬させたことについて怒るに怒れなかった。
少年はにこにこしながらデリックの頭を撫でる。

「……サイ、ケ」
「ごめんねぇ。痛かったよね。デリちゃんに久しぶりに会えたから、俺舞い上がっちゃった」

デリックの覇気のない顔はよくわからないが、どうやらこのふたりは既知らしい。友人にも恋人にも見えない彼らは、いまいちどんな関係なのか見当がつかないが。
日々也の不思議そうな視線に気づいたのか、サイケと呼ばれた少年は日々也に向かって微笑んだ。

「はじめまして、日々也くん。俺を君のおうちに入れてくれる?」

なんの躊躇いもなくそう告げてきたサイケに、なるほど衛兵が怒るわけだと日々也はため息を吐く。それでも追い払えなかったのは、ひとえに日々也によく似た彼の容姿ゆえだろう。
日々也はちらりとデリックを見る。依然として呆然としたままのデリックは、しかし日々也がどれだけサイケと近づこうと大した反応を示さない。つまり、この少年は少なくとも日々也に害をなす者ではないのだろう。

「……わかった。ついてきて」

日々也は一言許可を出すと、衛兵にデリックの処置を頼んで、少年を城の中に連れて行った。
今はデリックのことをそっとしておいた方がいい。よくわからないけれど、きっとなにか個人的な事情があるのだ。そんなプライベートなものを、衛兵やサイケやらたくさんの人間がいる中で聞き出すのは不粋である。日々也にそう思わせるほど、今のデリックには切羽詰まったものがあった。

ふわりとラベンダーの香りがする。
ひとつだけ確実なのは、その甘い芳香を纏った少年がデリックの中の多きを占める存在であるということだ。













城の中に入るなり、サイケはなんと王である父と謁見した。衛兵も執事も交えず、たったふたりだけで話し合いをしたのだ。
もしかしたら、サイケはどこかの国からの遣いなのかもしれない。あんな無邪気な国使がいることには驚きだが。接したのはあまり長い時間ではなかったけれど、日々也にはサイケがただの子供とは思えなかった。
日々也は釈然としないものの、サイケのことを頭の隅に追いやった。おそらく、サイケは日々也には用がないはずだ。ならば、彼について深く考えるのは後回しにしよう。とりあえず今は優先すべきことがある。
日々也は目的の扉の前に立ち、控えめにノックをする。すぐに「どうぞ」という声が聞こえたから、遠慮なくその扉を開いた。
いつもと変わらない、きちんと整頓された部屋。必要最低限しか置かれていないが、そこにはひとが住んでいるという暖かみもちゃんとある。
デリックはベッドの上に座り、コーヒーを飲んでいた。それはいつもと変わらぬ光景に見えたけれど、それは果たして本当なのだろうか。デリックはポーカーフェイスがうまいし、決して自分の弱みを見せようとしないところがある。杞憂ならいいけれど、彼は今、多大なる動揺に苦しんでいるのではないだろうか。

「デリック」

ぴくっとデリックの肩が震える。日々也は黙ったままデリックに近づき、真剣な目をして言った。

「君のピアノ、聴きたいな」

きょとんとこちらを見てくるデリックの手を引いて、ピアノがある部屋まで早足で向かう。黒いグランドピアノの前にデリックを座らせると、日々也はピアノの近くに椅子を持ってきて座った。戸惑った瞳がこちらを見てくる。そんな頼りなさげな雰囲気の彼に、日々也はめいいっぱいやさしげな微笑みを送った。

「俺は聞かないよ。君が聞かれて嫌がることを、どうして無理矢理聞き出すなんてことをしようか? まあ、あんまり君にはしょんぼりして欲しくないから、君を笑わせる努力を惜しむつもりはないよ」

だから、ピアノを弾いて聴かせてよ。
ねだる日々也に、デリックは肩を竦めて笑った。

「それじゃあ、私じゃなくて、日々也様が幸せになるじゃないですか」
「いいんだよ。だってデリックは、俺が笑うと嬉しくなるだろう?」
「……随分、自信家な方だ」
「だって、俺ならそうだから。君が笑っていると、どうしようもなく幸せになるんだよ」

だから、俺を幸せにしてよ。
その日々也の言葉を聞いて、デリックはふわりと笑む。
桃色の瞳が綺麗な涙に潤む様子は、ひどく美しく、幸せそうな色をしていた。











素敵な音色を奏でてくれた恋人を自屋に送り、日々也はひとり城の中を歩く。城内の隅から隅まで歩きまわった後、最後に向かった夜の人気のない裏庭に足を運んだ。
裏庭だけれど、表にある庭と交換しても遜色ないだろう。見えないところ、ひとがあまり見ないところまで、徹底的に整える。異邦人が桃源郷と称える美しさを誇るつもりならば、並大抵の意識で行ってはならない。だから、この裏庭に咲く美しい花に、枯れたものは一輪たりとも見当たらなかった。

「綺麗だねえ」

無邪気な声は日々也の声よりも幾分か高い。表情も、体躯も、日々也より幼い。けれども、彼はこの小さな少年を侮ることができなかった。

「僕の国は、こんな綺麗なものがないよ。一番綺麗だったデリちゃんも、今はあの国のものではない」

サイケは手にしているラベンダーをぎゅっと握りしめる。いたいけな子供のような笑顔は、いつの間にかにどこかに行ってしまったようだ。真剣な顔色のサイケは、日々也よりも大人びて見える。

「―――いいや、最初から、デリちゃんにあんな国は似合わなかったんだね。あんな、奪うだけの国。かなしみだけしか生まない国」

ラベンダーは「あなたを待っています」。その花言葉に誘われて、日々也はこの裏庭までサイケを探しに来た。
けれども、その花言葉が向けられた相手は日々也なんかじゃないのだろう。あなたを待っています、あなたの帰りを待っています。そのメッセージはあえなく届かず、代わりに無関係な異邦人が現れた。

「デリちゃんがあんなに幸せそうに笑うなら、ラベンダーは君にあげるね」

サイケは少しだけ寂しそうに笑い、異邦人である日々也に届かなかった想いを渡した。








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