朝の森は別世界だ。朝露を身にまとった枝葉はきらきら光り、少し冷えた綺麗な空気は吸うだけで満ち足りた思いになれる。朝陽に透ける森自体が、どこもかしこも美しい桃源郷の一部のようだ。
けれど、自分がここまで機嫌がいいのは、見慣れても依然として感慨深い森だけのためではない。
日々也はそれとなく後ろを振り返る。後方には、いつもよりやや気が抜けたデリックがいた。
彼にはまだまだ朝の森の美しさが新鮮らしく、きらきらとした瞳でうっとりと木々を見つめている。そんな彼がとても可愛らしくて、愛しくて、日々也は満ち足りた気持ちで大好きなひとを見ていた。

思えば、こうやって朝の散歩をするのも久しい。王の息子として執務を手伝い始めた日々也は、ここ最近忙しいスケジュールを送っていた。この国の王は賢くなければならない。そうしなければ、火急の早さで大国に取り込まれてしまうからだ。
だから、いざ王の執務を手伝うとなると、父は全く容赦がなかった。いつものように穏やかに微笑んだ表情で、何気なく難題を吐く。加えて、デリックの他に日々也を補佐してくれる父の臣下がまた曲者だ。あのデリックが苦笑してしまうくらいの厳しさと堅物さに、何度も心中で悪態吐いた。全てが終わった後、日々也はもうへとへとで、翌朝に遠出をするほどの体力は残っていなかった。
そんな日々をしばらく過ごしていたら、ある日父からご褒美をもらった。「明日は仕事をせず、勉強もほどほどに、のんびりと過ごしなさい」という思いがけない言葉に、日々也は疲れも忘れ、早朝から遠乗りに出かけた。
父の思惑はわかっている。これは「飴」だ。あまりにも日々也をしごいて執務に嫌気が差さないよう、ここらで一息、といったところだろうか。
確かに、そろそろ危なかったかもしれない。疲弊した毎日を送れば、自然と自由な時間は睡眠に回される。よって、朝の森の美しさにも劣らない愛しい彼と、こうして穏やかな時を過ごすのも久しぶりだった。

明日からはきっと、また多忙な日々を送ることになるだろう。だから、今日はできるだけ幸せの充電をしたい。
そう思って、日々也はいつもの湖へと向かう。彼とふたりで静かに過ごせる、幸福な空間を求めて。











馬から降りて、大きな木の木陰に腰を下ろす。暖かな日差しを受けて、心地よい眠気が日々也を襲った。
小さな欠伸に、デリックは小さく笑う。少しむっとした日々也に構わず、デリックはやわらかく微笑んだ。

「ほら、言った通りになった」

最近お疲れなんですから、朝の散歩なんてしないでゆっくりおやすみになればよかったのに。
そう言うデリックの口調がまるで自分のことを子供扱いするようなものだったから、日々也は思わず不平を言いたくなる。けれど、日々也が何かを言う前に、デリックは歌うように囁いてきた。

「でも、私は久しぶりにあなたとここに来れて嬉しかったですけどね」
「……ああそう」

全く、なんて殺し文句を言うのだろう。
日々也は赤くなった顔を膝に埋めて隠す。そんな日々也にデリックはからかうように「寝ちゃいました?」と言うから、日々也は「……別に、眠くなんてないよ」とそっけなく返した。
すると、デリックはまたおかしそうに笑ってから一言囁いてきた。

「残念ですね。もし、日々也様に睡眠が必要ならば、膝枕をして進ぜようと思ったのですが」

ああもう、そんなことを言われたら、完全に日々也の負けだ。

「……寝不足だから、しばらく寝る」

せめて拗ねた声を出したつもりだったが、「かしこまりました」と言うデリックがあまりにも嬉しそうだったから、思わず日々也の顔もやわらかく緩んでしまった。











「いい風ですね。優しく、私たちのことを包んでくれる」

デリックは日々也の頭を優しく撫でながら、独り言のように言う。その透き通った声は、まるで子守唄のように日々也を優しく眠りにつかせる。

「風だけではない。全ての自然、ひと、物。どれもが優しい。異邦人である私を、俺を包んでくれる。そんなあなたがどうしようもなく愛しいんですよ」

不意に現れた寂しげな声に、日々也の意識は少しだけ冴える。
けれど、それに気づいたデリックが更に優しく日々也の黒髪を撫でるから、曖昧な意識はすぐに真っ暗になってしまう。すやすやと安定した眠りについた日々也を見て、デリックは彼を起こさぬようにそっと声を出した。

「以前ここで、自由はいらないといいましたね。その通りです。俺は自由はいらない。死ぬまであなたに縛られたままでいたい」

デリックは昨夜のことを思い出す。
いつものように日々也の補佐をし、その後日々也だけ自室に帰され、デリックがひとり王の前に残された。
年齢よりひどく若々しく見えるのに、その雰囲気、その知識量は年を重ねた賢者のようだ。賢さというのは容易く比べられるものではないが、この王が賢君であることは間違いないだろう。今の日々也では到底かなわない。

「さて、最近どうかな?」
「王子のことでしたら、陛下のご感想通りであると思いますが」
「あの子は真面目でわかりやすいからね。それとは違って、君はとてもわかりにくい」

王がデリックに尋ねているのは息子のことではない。なんとなく予想していたことだが、いざ自分のことを聞かれるとデリックは苦笑してしまう。他人のこと、客観的なことならば簡単に分析できるけれど、どうも自分のことを語るのは苦手だ。
そんなデリックを見て、王はうんうんと満足したような顔で頷いた。

「良い傾向だね。君は今、穏やかに笑っている」
「そう、でしょうか」
「なんとも素直な苦笑だ。主観的になるのが苦手な君が、なんとも大きな進歩だね」

それも、日々也の影響かな?
王がからかうように言った言葉に、けれどもデリックは素直に頷く。瞳を伏せ、デリックは感嘆の声を漏らした。

「……あの方は、なんて素直な方なんでしょう。素直な笑顔、素直な態度、そして―――」
「素直な好意?」
「…………まあ、それも」
「ホント、一目惚れした相手にまっすぐに求愛するとこは僕にそっくりだよね。ま、口は時々あまのじゃくだけど、動作はあまりにも素直だから、日々也の好意はバレバレだったでしょ」

ふふふ、と笑う王に丁重に制止を入れる。今でも日々也からの熱視線になれないから、あまりそのことを思い出させないで欲しい。
思い出せば、あのひとに会いたくなってしまう。立場も時間も忘れて、彼の自室まで押し掛けて。そんな愚かな行いをすることはデリックのプライドが許さない。

「さっきのは訂正しようかな。真面目なのは君の方だ。それも、奇妙なくらい真面目だね」

王は真剣な目をデリックに向ける。

「几帳面なほどに、君は自分の身分をわきまえる。それなのに、君は日々也の恋人であることをよしとする。これは矛盾じゃないのかな? もし君が日々也の執事でいたいのならば、何故日々也の恋人となったのか。君には身体だけの関係の愛人になるという選択肢もあったはずなのに」

この聡明な王は本当はもうわかっているのだ。デリックの心の内などお見通しなのだろう。
けれど、それだけでは足りない。デリックにちゃんと自分が考えていることを自覚させなければならない。きっと、これはデリックのことを思った優しさなのだ。
だから、デリックは王だけには正直な気持ちを語る。自分よりも度量も器量も遥かにある相手だからこそ、明かせる胸の内を。

「日々也様は、それはそれはとても多くの幸福を私にもたらしてくださいました。あの方の傍は心地好い。ぬるま湯に浸かっているわけでも、問題解決から目をそらして怠惰の中にいるわけでもありません。むしろ、今を生きていける。昔のことに、とらわれないでいられるのです」

過ぎ去ったこと、今を生きていること。その折り目をつけられる時がようやくきた。
ここにいるデリックは以前のデリックではない。新しいデリックであり、その中心軸は日々也である。

「だから、いいんです。どんな立場でも。家臣でも恋人でも愛人でも、それこそ枕だっていい。あの方と関わりを持てるのなら、わたしはなんでもいいのです」

身体だけの関係を築かなかったのは、日々也がそれを喜ばなかったから。
デリックは日々也を愛しているが、別に愛されなくてもいいのだ。傍にいさせてくれれば、あとは何も求めない。
デリックの言葉を聞いた王は、ふわりと優しく微笑んだ。

「そう。君はこの国に居場所を見出だせたんだね。それならよかった」

「けど、まだ駄目だね」と王は言う。

「また君は自分を過小評価している」
「それが、良い家臣の典型でしょう?」

完璧な微笑みを顔に貼り付け、さらりと王の咎めをかわす。ため息を吐く王は、まるで手のかかる子供を見ているような、とても困った顔をした。









とてもいい香りがする。
大好きな落ち着くにおい。何だろう? これはなんのにおいなのか。
うとうとと微睡む意識で、何だか寝台が固いなと判断する。枕元がいつもより固めだ。不思議に思って寝返りをうつと、くすくすと聞きなれた笑い声が近くでした。

「デ……リック?」
「お目覚めですか? たくさん寝ましたね」

へ、と首を傾げながらデリックの顔を見ること数十秒、日々也はすぐさま跳ね起きた。
その弾みで日々也にかかっていたデリックの上着が落ち、ひんやりとした肌寒さに身体を震わす。
今、何時だ? そういう意味をこめてデリックを見ると、彼は「お昼過ぎです」と言った。

「今日は結構寒いみたいですね。まだ夕方じゃないのにもかかわらず、こんなに風が冷たい」

水辺の近くというのもあるのだろう。ふるりと身体を震わせるデリックは、シャツ一枚だ。どうやら、寝ていた日々也に上着をかけて、彼はこの寒さの中薄手のシャツだけで凌いでいたらしい。日々也は慌てて自分のマントでデリックを包む。しかし、デリックの顔色はいつもより白く、まるでそれは死人を彷彿させた。
たまらず、彼の身体を暖めようとぎゅっと抱き締める。微睡みの中で感じた香りは彼のものだったらしい。甘い香りに頭がくらくらした。

「あったかいですね、日々也さまの体温」
「さっきまで、寝てたからね」
「それだけですか?」
「……それだけじゃなかったら、悪い?」

デリックは日々也の身体に腕を回し、ふたりの身体を更に密着させる。

「全然? むしろ嬉しいくらいです」

やっぱり、愛されるのは嬉しいものですね。
今日、王にそう告げたら、「だろう?」と満足げな声が返ってくるだろうと、デリックは予測した。








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