有り余る豊富な資源があるわけではない。鋼鉄のように強い兵士がいるわけでもない。あるのは豊かな土地と、十分な資源と、表情豊かな季節と、国土の三割を占める大きな湖。
現在存在する中で最も美しいとされる国。それが湖の国とも呼ばれる日々也の暮らす国であった。
美しく、卓越した兵力を持っていないこの国が、何故いまだに強国の餌食になっていないのか。その疑問に対する答えはひとつ。
湖の国の君主は、代々、交渉により戦争を避けてきたのである。
犠牲なき闘いを。それが、この国のモットーであった。
けれど、できるだけ犠牲の少ない方法で物事を解決するのはそう簡単なことではない。裏から慎重に手を回し、先を読んで、必要ならば他国と同盟を組む。そのどれもが、名君を必要としている。

「だから、代々の王子は賢君になるために英才教育を施されるのです」
「……」
「日々也様、わかりましたか? したがって、大切な勉強の時間を削って私のピアノを聴きたいというご命令は、あなたさまを立派に教育するために王から与えられた権限により却下致します」
「……君が君主なら、きっと名君になっただろうね」

本当に頭が切れる男だ。日々也はため息を吐いて、教科書である分厚い本をぱらぱらと捲る。
そんな日々也に、頭が切れる男、もとい執事であるデリックはにこりと美しく微笑んだ。

「勉強が終わりましたら、いくらでもあなたの為に弾きますよ。この手も、心も、何から何まで、私はあなたのものなんですから」
「……本当はシャイなくせして、時々凄いことを言うよね、君」

きょとんとするデリックに、日々也は苦笑する。まあ、そんなギャップが彼の魅力でもあるのだが。

「何でもないよ。早く勉強を終わらせよう。我が国の安寧と俺の楽しみのために」

日々也の言葉に、デリックは綺麗に微笑んだ。
その笑顔の為ならなんでもできると言ったら、君はどんな反応をしてくれるのだろうか?
日々也は分厚い教科書を開きながら、ぼんやりと愛するひとのことを想った。











日々也がデリックと出会ってから、まだ半年も経っていない。
最初、大人っぽくて隙がない彼に日々也は惹かれ、自分を「日々也」ではなく「王子」として扱うデリックを憎んだ。そんな複雑な感情から日々也とデリックとの間には色々あったが、まあ、結果的には日々也の想いは報われた。―――どう考えてもデリックが譲歩するという形で。

デリックにひどいことをしたのは日々也。デリックと日々也のわだかまりを解いたのはデリック。日々也は、何度考えても、自分の幼稚さに頭が痛くなった。
なんだかんだ言って、デリックは大人で、しかも優しい。だから、彼はまだまだ子供な日々也のわがままを苦笑して受け入れてしまうのだ。そうやっていつも、デリックが譲歩する。
それはいけない。人間として、上に立つ者として、果てはひとりの男としても。愛するひとを困らすようなことは、できるだけ避けたいのだ。
だから、日々也は決心した。大人になると。成長して、デリックと肩を並べることができるようになってやろうと。
幼少期の病弱な生活からひとより甘ったれた自分を成長させる。それが当面の目標だった。











夜の静まりかえった室内で、日々也はため息を吐いた。甘ったれた自分を叩き直すと決めた日から、勉強や王国の長子としての執務が増えた。おそらく、日々也が王子たる自覚と意識を持ったことを、父はちゃんと把握しているのだろう。跡取りとして、これからは今まで以上に学ばなければならない。長すぎる道のりに、少し気疲れした。
そんな体も心も疲弊している時、控えめなノックが二回鳴った。日々也はぼんやりとしたまま「どうぞ」と答える。おそらくメイドだろう。就寝前、日々也はハーブティーを一杯だけ飲むのだ。

(今日はできればぐっすり眠れるものがいいな)

それを伝えようと近くまできた人影を見て、日々也は目を見開いた。確かにポットとカップが乗ったワゴンはいつも通りある。けれど―――それを淹れてくれるひとは今日は違った。

「日々也様。カモミールとクランベリー、どっちがいいですか?」
「……カモミールで」
「承知しました」

そう言って手際よくハーブティーを淹れる男、デリックを見て、日々也は驚きに瞳をしばたたかせる。だって初めてだったのだ。デリックが夜に日々也の自室に訪れたのは。
恋人のような関係になってからも、デリックは絶対に夜に日々也の自室に来なかった。だから、日々也の方がデリックの寝室に忍んでいったのだが、それはここでは関係ないので割愛する。
なにか用事でもあるのだろうか? 日々也は最近のスケジュールを頭の中で確認する。特に重要なものは無かったはずだ。それとも、なにか急を要する案件が生じたのだろうか?
日々也が首を傾げて考えていると、何故だかデリックは苦笑する。日々也は暢気に苦笑する姿も綺麗だなと思いながら、「どうしたの?」と尋ねた。

「いえ。やはり、来るべきではなかったかと思いまして」
「どうして?」
「だって日々也様、私を見て、王子である時の顔をされた」

デリックは困ったような顔をして、こぽこぽとハーブティーをカップに注ぐ。

「それじゃあ、気が休まりません」

つまり、こういうことらしい。
公務に疲れた日々也に、せめて夜だけはプライベートな落ち着いた時間を過ごして欲しかった。だから、デリックは日が沈んだら絶対に日々也の自室を訪れなかったのだ。
そんなデリックの優しい心遣いに胸が暖まるが、彼は間違えていると日々也は思った。たとえくつろいだ夕刻だろうが、デリックが訪ねてくるのを厭うことはない。むしろ、彼が近くにいるだけで日々也は癒されるのだ。

「でも、今日は来てくれたね」
「……王妃様が」
「母さんが?」
「どんな時であれ、日々也様は私が訪ねてくれば喜ぶとおっしゃって、」
「うん、母さんの言う通りだ」

大方、最近の日々也の多忙を知って、それを労うためにデリックを日々也に遣わしてくれたのだろう。それとも、謙虚なデリックを優しく諭したか。どちらにせよ、母は日々也やデリックにとても優しい。その優しさに、日々也は表情をやわらかくする。

「ありがとう、デリック。君が会いに来てくれて、とても嬉しい」

日々也がにこりと笑いかけると、デリックは頬を赤く染める。それが可愛らしくて、近寄って彼の赤い頬を撫でていると、デリックはぽつりと「申し訳、ありません」と呟いた。
「何がかな?」と甘やかな声で問えば、デリックは体を震わせる。恥ずかしげにうつむく姿は少女のように可憐だ。

「嘘を吐きました」
「嘘?」
「王妃様のお言葉に従ったのもそうですが、その、本当は―――私が会いたかったんです」

最近、日々也様が公務に忙しくて、プライベートで会うことが少なかったので。

今にも爆発してしまいそうなほど真っ赤な顔のデリックの言葉に、日々也はぽかんとする。つまり、彼はこういいたいのだろうか。「寂しさに耐えられず、日々也に会いにきてしまった」と。
やられた。日々也は自分の薄く紅潮した顔を隠しながらそう思う。ああ、なんて可愛らしいことを言うのだろうか。好きなひとにそんなことを言われたら、自分はどうすればいい? 答えは明白だ。思うがまま、彼を可愛がりたい。
日々也はデリックの腕を引き、柔らかなソファに座らせる。すぐ隣に自分も座り、デリックと向かい合った。

「日々也さま?」
「勘弁して。これ以上君が可愛らしいことをしたら、俺は我を失った獣のようになってしまうよ」
「か、かわいらしいって……」
「ああ、やっぱ撤回。君は呼吸しているだけで可愛いね」

日々也はそう言ってくくくと笑うと、自分より少し長身な体をこちらへ抱き寄せた。ばくばくと鼓動が大変なことになっている恋人のことをくすりと笑い、彼の甘い香りを堪能する。
ああ、なんて素敵な時間。ハーブティーもブランデーも必要ない。彼さえいれば、疲れなんてふっとんでしまう。

「日々也さま、あの」
「ん?」
「ハーブティーを、飲まないんですか?」
「君が淹れてくれたんだ。後で必ず飲むよ」
「でも、冷めてしまいます」
「冷めたって、君が淹れたものなんだから、絶対に美味しい」
「……わかりました。もういいです」

お好きなようにしてください、とため息混じりに言う彼は、その割には幸せそうな顔をして日々也の背中に腕を回した。





カモミールの語源は「大地の林檎」ですが、スペイン語名のマンサニージャは「林檎のような香りがあるもの」という意味です。









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