躊躇した足取りで、見馴れた扉の前まで歩いていく。そこで暫くの沈黙を過ごし、意を決してがらりと扉を開けた。 古い紙、本の香り。 すっかりお馴染みとなったこの空間は、穏やかな表情で自分を迎える。三月の暖かな日差しに照らされ、セピア色を基調とした本棚が重みのある雰囲気を持つ。 特別な場所。あなたとのたったひとつのつながり。 それとさようならをする日が、とうとう来てしまった。 3月 終焉、新しい世界へ 折原臨也と最後に会ったのはいつだったか。静雄は手元の美しい詩集を見て、静かにため息を吐く。 想いを寄せる少女に向けられた、冷酷と非情を混ぜて固めたような表情や声。まるで知らないひとみたいな折原臨也に、背筋がぞわりと冷えた。 怖い。好きなひとに批判されることは、信じられないほどの恐怖を静雄に与えた。 静雄はカレンダーを見る。もう三月、卒業式だ。今日もこれから卒業式の予行がある。その為に学校に行かなければならない。 卒業、別れ、全ての終わり。そして、新しい生活の始まり。 こんな不安定な気持ちのまま、自分は彼との終焉を迎えるのだろうか。なんの決着もつけず、折原臨也から目をそらして。それでは、何年か経って、彼との思い出はきっと後悔に塗り潰されてしまう。 それでいいのだろうか? 初めて抱いたこの心疼く感情を、見返したくない苦い思い出にして、そうして逃げ出して、いいのだろうか。 答えは出ない。いや、出さない。だって、今決断をしたら、臆病な自分は折原臨也との対面を拒むだろう。彼は冷たい言葉を簡単に吐くひとだと、静雄はもう知っているから。 だから、もう卒業式まで考えることはやめる。当日、卒業式の興奮で積極的になれることを祈って。 そして彼に返すのだ。切ないほどの愛が詰まった、この美しい本を。 その時、一緒に静雄の拙い愛の言葉を乗せて。 すすり泣く声と、再会を約束する声。ここにいる友人全てとの再会はもうないと、おそらく誰もが思っているだろうけれど。 静雄の付き合いが今後とも続くのは、たぶん新羅くらいだろう。彼とはもはや腐れ縁と呼べるほどの付き合いがある。それはそう簡単に切れるものではない。 それと比べると、静雄と折原臨也の縁は本だけでつながっていたのだ。簡単に切れてしまう一本の糸。それを必死に手繰り寄せ、彼との接点を作ってきた。 必死だった。これが途切れれば、もうおしまいだと思った。 けれど、その糸も今日切れる。だから、今日は何の遠慮もいらないのではないだろうか? 今までびくびくとご機嫌伺いをしていた静雄が、唯一折原臨也に意見できる最初で最後の時。それは今しかない。 静雄は躊躇した足取りで、見馴れた扉の前まで歩いていく。そこで暫くの沈黙を過ごし、意を決してがらりと扉を開けた。 見馴れた光景、もう来なくなる場所。 本の香りが重厚なこの空間こそ、彼と自分の最後の場にひどくふさわしい。 静雄は迷わず、最初に彼と会った本棚まで進む。奥へ奥へと進む道のりは、まるで本の森に迷ったような錯覚を静雄に抱かせた。それでも足に躊躇いがないのは、きっとこの先を抜ければあのひとに会えるから。その為に、俺はこれまで必死にあなたを追いかけてきたのだ。 少し開かれた窓からふく風。それが夕陽を反射して赤くなったカーテンを揺らす。同時に、さらさらとした黒髪が揺れ動き、白く端正な顔に微かな陰を作った。 初めて出会った10月と同じようなシチュエーションで、彼は静雄を出迎えた。 「やあ、来てくれたんだ」 久しぶりに聞いた折原臨也の声に、どうしようもなく泣きたくなる。どうして自分はこんなに彼が好きなのだろう? 彼がどんなに悪魔であろうと、最初から静雄には彼を好きになることを拒む手筈はなかった。 でも、それも今日は最後だ。いくら好きでも、もう別れの時なのだから。 「先生、」 「なあに?」 「先生、先生、せんせい……」 溢れる涙に視界が霞む。 嫌だ、俺はこの瞬間をしかと記憶に刻みたいのに、歪んだ視界にはぼやけた景色しか映らない。 ごしごしと目を擦れば、やんわりとそれを制止する手。見れば、近くまできた折原臨也が、静雄に向けて優しく微笑んでいた。 「大丈夫、ゆっくりで大丈夫だよ」 「せんせい……」 「ちゃんと聞いてあげるから、落ち着いて話してごらん?」 ああもう、そんなに優しくしないで。せっかく区切りをつけるところなんだから。 静雄は折原臨也から一歩離れ、その美しい赤い瞳を見て、ひとつ息を吸い込み―――、 「あなたのことが、好きでした」 たぶん、俺の一番の大きな思い出になるであろうひと。好きで好きでたまらなくて、ひどい一面を見てもその気持ちは揺るがなかった。 なんて悪魔みたいなひとなんだろう。誰をも魅了し、決して振り向いてくれない。 「ごめんね、俺は高校生と恋人にはなれない」 優しくして、突き放す。それでも、彼はまだ俺のことを魅了したままなのだ。 静雄は手に持っていた詩集を折原臨也の鼻先に突きつける。そうして、目の前にいる想い人を精一杯睨み付けた。 「これは、あなたに返してあげません。だって、こんな失恋の詩、あなたには必要ないでしょう? これが必要なのは、俺の方だ」 静雄はそう言い放つと、すぐに踵を返した。 止めどない涙を流しながら、颯爽と図書室を校舎を後にする。今日は人目を憚らずに泣いて良い日だ。だから、涙をぬぐうこともするつもりはない。 けれど、絶対に声を上げて泣かない。この悲しみを、他人に理解してもらうつもりはないからだ。そうして自分の胸の中にしまいこんで、宝物を独り占めするように自分だけのものにしてしまおう。 それぐらいの贅沢は許されるはずだ。あの大好きなひととの短かった思い出を知るのは自分だけで良い。 静雄は家に帰るなり、なにも語らず部屋に閉じこもった。せめて今日だけはもう誰とも話さない。そうしてあなたの余韻に浸るのを、ゆるしてくれますか? 先生。 当然だけど、答えてくれる声はなかった。 *** がやがやと喧騒が騒がしい。 大学の入学式というのはもう少し秩序だったものだと思っていたが、式がまだ始まっていないからか話し声が絶えなかった。 さて、ようやく新たな生活の始まりだ。式が始まると共に静雄は前を見据える。これからの四年間、自分は様々なことを学び、経験していくのだろう。そのうちに、きっと、彼のことなんて忘れてしまうのだ。昔の苦い初恋と、うっすら記憶の裏側に残るくらいまで。 式は順調に進み、次のプログラムに移る。新任の事務や教員を紹介するアナウンスに軽い眠気を感じていた時、ありえない幻聴を聴いた。 「続いて、折原臨也准教授」 おりはらいざや。 一気に冴えた意識と、驚きに見開かれる瞳。アナウンスが告げる「……折原臨也先生はイギリスの大学でも名の通った、英文学界のホープで……」なんて誉め言葉なんてちっとも耳に入らない。静雄の意識は、笑顔で会釈する彼の姿にばかりいってしまう。 なんで、こんなところに。 そう思うと、頭がくらくらした。その様子を気分が悪いのかと勘違いした教員が「大丈夫か?」と声をかけてきてくれたので、静雄は外の空気を吸いに行く旨を伝えて会場から逃げ出した。 走って、走って、目的地も考えぬままに彼から逃げた。もう振り切ったと思ったのに、何で、どうして―――、 「捕まえた」 その声に、はっと気がつけば、右腕を掴まれていた。 逃亡は失敗。こうしてまた、自分は彼にとらわれてしまう。 「なんで、どうして、俺を逃がしてくれないんですか……」 じわりと瞳が潤む。彼はそんな静雄を見て、「また泣かしちゃったな」と苦笑した。 「ちょっとおどろかしたかっただけなのにな」 「あなたにとってはちょっとでも、俺にはちょっとじゃなかったですよ。どうして俺にちょっかいかけるんですか。俺はもう、あなたに翻弄されてくたくたなのに。もう、放っておいてくださいよっ……」 涙を滲ました声でそう非難すると、折原臨也は「しょうがないよ」と言って微笑む。 「俺も、君に翻弄されてしまったんだから」 そう言って静雄の涙をぬぐう彼の手を、静雄は払い除ける。そうしてまるで威嚇している猫のように、折原臨也をねめつけた。 「あなたはっ、俺と付き合う気はないと言った!」 「高校生と付き合う気はないと言ったけど、君と付き合う気はないとは言ってないよ」 「そんなの、屁理屈じゃないですか……ばかやろう」 ひっくひっくとしゃくりあげる静雄の背中を、折原臨也は優しく撫でる。彼はもう片方の手で涙をぬぐい、「やっと、君を慰められた」と信じられないくらい幸せそうな声で言った。 ばかじゃないのか。女子生徒に冷酷な言葉を投げた男はどこにいったんだよ。そんな、愛しいって囁いているような目でこっちを見てくるなんて、そんなの、今更すぎるのに。 もっと馬鹿なのは、耐えられずに折原臨也に抱きついた自分だ。 彼は静雄の身体をぎゅっと抱き締めて、幼子をあやすように優しく頭を撫でてくる。 そうして静雄が少し落ち着きを取り戻すと、「そういえば」と言って静雄と身体を離した。 「ねえ、あの詩集、返してよ」 「え?」 「だって、あの詩集は失恋したひとが持つのに相応しいんだろう? 俺も君も失恋しなかったんだから。そうだねぇ、君たちの卒業間際に俺にしつこく迫ってきた女子生徒にでも郵送しようかな」 「……ばっかじゃねえの。いつか刺されますよ、先生」 再び溢れてきた涙に、折原臨也は泣き虫だねぇと言って笑った。 泣かせているのは誰だよ、と静雄は思いつつ、この涙はさっきの涙とは別種であるとわかっていた。 幸せすぎて溢れる涙。それが誰のために流れたものかなんて、状況を見れば明らかだ。 「ね、これからうちにおいで。俺はこれでも、高校生である君に手を出さないようにと、今までしてきた我慢がたまっているんだ」 「……今日は入学式なんですけど」 「入学式だけでオリエンテーションは後日でしょ? つまり、君のこの後はフリーなわけだ」 「でも、勝手に帰るのは、」 「大丈夫。体調が悪そうだから帰したって、後で担当の教員に連絡しとくよ」 「…………先生は」 「新任の挨拶の後に用事があるって、事前に許可とってあるから」 「…………」 「他に懸案事項は?」 ねぇよ、と言えば、彼は至極嬉しそうな顔をして静雄を抱き締めた。 こうして、切れた糸は再び結ばれたのである。 あとがき |