「彼を惑わすのを、少しくらい控えてあげなよ」

君は大人でしょ? と、眼鏡をかけた生徒が呆れたように言った。
言葉をかけられた男は、その赤い瞳を細めて、ぼんやりとした様子のまま何も言わない。おかしい、と眼鏡をかけた生徒は思う。非常に彼らしくない、他人にこんな気の抜けたところを見せるなんて。

「……ねぇ」

突然口を開いた男は、眼鏡をかけた生徒に話しかけているのに、依然としてその瞳を図書室の入り口への道に向けている。
まるで、そこに誰かがいるかのように。

「君も、俺も、勘違いをしていたみたいだよ」

流れる金髪、緊張した面立ち。
照れながらも告げた言葉。
それは恐ろしい魔法となって、男からなにかを奪い去っていった。






12月 変化、あるいは恋慕







自覚の有無は、ひとの境遇を大きく変えてしまう。
知っているということは武器にもなりうるし、傷にもなりうる。
そしてどちらにせよ、その事実が重大であればあるほど、知ったら最後、忘れることなんてできない。
たとえそれが、忘却を望むほど信じたくない事であっても。

嘘みたいに整った顔立ちと、モデル顔負けのスタイル。
でも、きっと静雄を落としたのは、あの穏やかな笑顔。








「恋をすると世界は変わるんだ」

新羅が声高々に話しているのを、周りの生徒は白い目で見る。高校三年の進学クラスの十二月と言ったら、言わずもがな死ぬ気で勉強をする時期だ。そんな中、なにを寝ぼけたことを。誰もがそう言いたい状況で、ぼんやり新羅の話を聞いていた静雄は小さい声で呟いた。

「……そうかもな」
「わかってくれるかい?」
静雄の言葉に、同級生たちの間に震撼が走る。
確かに、早々に有名大学の推薦を得ている彼ならば、今から恋人を作って遊ぼうが構わないだろう。けれど、彼は平和島静雄だ。平和島静雄が恋愛事にさして興味を持っていないことくらい、彼と一年も同じクラスを共にすればわかる。
静雄は外見も良いし、性格も根は優しい。普段はおとなしい彼は、高校時代に幾人もの女子生徒に愛を告げられてきた。そしてその度に、「悪いけど……」とすまなさそうに全てを断ったのだ。
果たして、どんな女子生徒が彼のお眼鏡にかなったのか。
しかし、それを聞ける数少ない人物である新羅は、まるで気にせず自身ののろけ話を続ける。
黙れ、お前の話は聞いていない。一部の生徒からの殺気に勘づいたのか、何故か静雄の方が急に立ち上がった。

「俺、自販行ってくるわ」

そう言うなり、静雄は颯爽と教室から出ていってしまう。
新羅はやれやれと肩を竦め、誰にも聞こえないようにそっと呟いた。

「あー、悪い大人に捕まっちゃったかな……」









教室から出ると、廊下はひんやりと肌寒い。もう十二月なんだな、と今更のように思った。
静雄は自販機に硬貨を入れて、いちご牛乳を買う。そうして、ぼんやりと購買部の備え付けの椅子に座った。

最近、ある人物が静雄の頭の中を占めている。推薦入試もその合格発表にも動揺をしなかった自分が、何であの男にここまでかき乱されているか。
答えはもう自覚してしまった。いくら忘れようとしても、もう手遅れである。

静雄は折原という教師に恋をしてしまったのだ。

ありえない。相手は男だぞ。そうやって必死に自分を否定しても、英語の時間が来れば高鳴る鼓動。授業中に彼と目が会えば、思わず彼の赤い瞳をじっと見てしまう。彼に借りた本を返しに行くのが楽しみでしょうがないし、「次はこれね」と新しい本を手渡されると柄にもなく指が震えた。

静雄はちらりと腕時計を見た。
もうすぐ昼休みが終わる。そうしたら、あとは二時間授業を受ければ放課後だ。先週借りた文庫本はもう読み終えているから、図書室に行く口実があった。
週に一回くらいの頻度である本の貸し借り。決して叶わぬ恋をしている静雄にとっては、折原臨也との接点がそれだけでも十分だった。









図書室にはいつもまばらにひとがいるけれど、折原臨也と静雄が邂逅の場所としているこの本棚付近には、何故だか人影ひとつ見当たらない。ここら辺の棚は分厚い全集や外国の文学がほとんどを占めているので、おそらく学生にはそこまで需要がないのだろう。
もったいないな、と思いつつも、静雄は積極的に誰かに英書を勧めたりなどしなかった。馬鹿みたいだとは思うけれど、英書が折原臨也とふたりだけの共通の趣味のままであることが、なんだか少し嬉しかったのだ。
末期だな、と少し苦笑しながらいつもの本棚にたどり着く。そして普段通りなら、彼は既にそこにいて―――、

「あれ……?」

そこには誰もいない。生徒どころか折原臨也さえも。
静雄は自分の心が冷たくなっていくのにひどく動揺した。何で自分は彼がいなかったぐらいでこんなに落胆しているのだろう? 彼が今まで自分が来る前に既にいたことなんて、全くの偶然だろうというのに。
どうして彼が静雄の予定に合わせる必要がある? そう、そうだ。もしかしたら折原臨也は、いつも放課後に図書館に通っているだけかもしれないのだ。そう考える方が自然である。

そこで静雄は今日の教室の光景を思い出す。
受験、十二月、そして卒業。
あと卒業まで、三ヶ月しかないということ。

(偶然すら、もう続かない)

卒業したら、折原臨也と会う機会すらなくなってしまう。仮に彼がこの学校に来年からも勤めることになっても、静雄は母校に足繁く通うような生徒ではない。
それに、卒業したら、静雄は折原臨也にとって「通過した存在」だ。

足が震える。折原臨也との別れは約三ヶ月先であるというのに、何だか彼がもう二度と静雄の目の前に現れないような気がしてきた。

一番驚いたことは、それが非常に絶望に近いということ。

いくら割り切った気持ちでも、やはり静雄は完全に割り切ることができないらしい。
別れたくない。こんな気持ちを抱くなんて、以前の自分では考えられなかった。
恋はひとを変える。こんなにも弱く、脆く。



「やあ」



……彼はなんてひどいのだろう。自分に叶わない気持ちを埋め込め、それを自覚させる。お門違いだけれど、文句のひとつでも言いたくなってしまう。
今だってそうだ。彼がいなかったせいで感じた絶望。そして、彼の声ひとつで身体が歓喜に震える。

(ああ、やばい、泣きそうだ。)

「ちょっと、平和島君? どうしたのかな……なにかあったの?」

静雄は瞳を濡らして黙り込む。いつもより少し余裕のない折原臨也の顔を見ても、静雄の心はちっとも晴れなかった。
何度も言うけれど、自覚してしまったらもうおしまいなのだ。
折原臨也との別れを自覚した今、静雄はその絶望を忘れることができない。

「……なんでもないです。それはそうと、先生が俺より後に来るのって、なんだか珍しいですね」
「え? ああ。そうそう、それだった」

折原臨也は何かを思い出したように手を叩き、左手に持った古い文庫本を手渡してきた。
静雄は首を傾げながらそれを受け取る。すると、途端に折原臨也は綺麗に微笑む。
楽しそうで無邪気な顔。
顔が僅かに赤くなるのは、恐らく決して図書室内の寒さがためだけではない。

「それね、俺が学生時代に読んだ本なんだ。すごい好きでね、ぜひ君にも勧めようと思ったんだけど、どうやら家に忘れてきてしまったみたいでね。今、取りに帰ってたんだ」
「え……うそ」
「忘れたなんて、本当に嘘みたいだよね。おかしいな、朝ちゃんと鞄の中を確認したはずなのに……」

ぶつぶつ呟く折原臨也の声はもう聞こえない。だって、それほどの衝撃だった。
自分のために、自分だけのために、わざわざ自宅まで戻って本を取ってきてくれる。そんなことがあるなんて、まるで嘘のようだ。

恋はひとを変える。こんなにも弱く、脆く。
それでも静雄は、この想いに後悔だけはしない。折原臨也と出会って、初めて抱いたこの恋を。

「明日でもよかったですよ?」
「でもほら、君はきっと今日くらいに前回貸した本を読み終わるだろうなって思って」
「……ありがとうございます、先生。俺、いつも本を貸してもらったりしてばっかで、申し訳ないです」
「そんなの別にいいよ。あ、そうだ。はい、これあげる」

手渡されたものはいちご牛乳。静雄がぽかんとそれを見ていると、折原臨也はいたずらっぽく微笑んだ。

「これ、好きなんでしょ?」
「なっ、どうして……」
「いやさ、昼休みに自販の近くを通りかかったら、金髪長身の生徒が上の空でいちご牛乳をすすっていたのが見えてたんだよ。随分と、かわいらしいね」
「か、かわいくない!」
「ははは。……ようやく泣き止んだ」

はっとして目元を触ると、涙は既に乾いていた。先程までの暗い心も明るくなっている。
惨敗だ。彼の所作ひとつで面白いくらいに変わってしまう自分。それでも、そんな自分に静雄は吹っ切れた。
今更くよくよしても、彼との別れは刻々と迫ってきている。ならば、せめて終わりが来るまでの時間を大切にしたい。

静雄は折原臨也の顔を見る。いつももらってばかり彼に、少しくらいなにかを返したい。

「先生、俺、先生になにかできませんか?」
「なにか?」
「なんでもいいんです。いつももらってばかりだから、少しくらい何かを返せたらと思って」
「何でも、ねえ」

折原臨也はにやりと笑う。その顔はなにか面白いことを思い付いたような顔だ。

「じゃあさ、一度だけ臨也って呼んでくれない?」
「え?」
「いやね、海外で教えていた時は生徒からも臨也って呼ばれていたんだけど、最近誰からも呼ばれなくてね。少し寂しいんだよ」

そんなことでいいのだろうか。
静雄は拍子抜けする。折原臨也がなんでからかうような顔でこちらを見るのがよくわからない。確かに少し恥ずかしいけれど、同時に嬉しくもある。
だって好きなひとの名前を呼べるのだ。それも本人に向かって。しかも、相手から呼ぶように要求されるなんてこれ以上の幸せは無い。
静雄はにこりと笑う。その笑みに相手の赤い瞳が揺れたことにつゆひとつ気付かないで。


「臨也、先生」




















逃げるように図書室を出れば、途中で新羅とぶつかった。それに「悪い」と簡単に言ってすれ違う。
本当に申し訳ないけれど、静雄には今、全然余裕がないのだ。
前回借りた本を返すのも忘れたし、握りしめ過ぎたいちご牛乳は生温かくなっている。
きっと鏡に映る自分の顔はほのかに紅潮しているに違いない。それが恥ずかしくて、足早に立ち去ってしまった。

(それにしても……)

静雄は手にした二冊の文庫本といちご牛乳に目を落としながら首を傾げる。
寒さからだろうか、最後に見た折原臨也の顔は確実に―――少し赤く染まっていた。




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