十月に渡された文庫本は、どうやら臨也のものらしい。
ぱらぱらと捲れば、そこにはずらりと並んだアルファベットの羅列。
それに思わずうんざりとしたのは、たったひと月前の話。











11月 授業










何度も言うが、静雄は意外と真面目な少年であった。だから、ひとから勧められた本を読まずに返せるわけがない。
英書を読破するのは無理だろうけれど、なんとか少しは読まなければ、と義務のように思って辞書を片手に開いたそれは、しかし静雄の予想を反して彼を驚くほど魅了した。
英語は苦手ではない。けれど、得意でもなかった。それはきっと静雄が英語に全く興味を持っていなかったからであろう。ひと月前の自分を思い返して、静雄は信じられない気持ちになった。今ではもう、英語という言語にすら興味を持ち始めている。

「今日も読んでるんだ」

そう言って新羅が笑う。この前の席替えで、新羅は静雄の隣から後ろになった。静雄が前から三番目で、新羅はその後ろ。よくわからないけど、新羅とは三年間こんな感じだ。

「面白い?」
「面白い」
「うん、いいね。君が英書を読んでいる姿はすごく様になる」

そうやって新羅が笑うのを見て、静雄はあの日のことを思い出す。
夕焼けの中のひどく端正な男。
静雄に向けられた、ふたつの笑顔。

あれから何回か授業で彼に会った。けれど、それ以外では廊下ですれ違いもしない。
もしかしたら、あの日のことは夢かもしれないな、と静雄は思ってしまう。あの日の自分はひどく寝不足であったから、それはあながち嘘じゃない気もした。

だが、静雄はそれをどうしても否定できない。静雄は手の中にある文庫本を見る。折原臨也と綺麗な字で名前を書かれたこの本を持っている限り、自分はあの日の出来事を夢だと言えないのだ。









折原臨也、もとい英語臨時教師の授業は、非の打ち所がないほど素晴らしいものだった。
発音はいいし、文法の説明はわかりやすい。さすが外国暮らし、と思いながら、静雄はノートに板書された教師の綺麗なアルファベットを写していた。
最近は英語の時間が楽しくてしょうがない。周りの生徒は受験に焦って英語を勉強しているようだが、静雄はむしろ以前より受験を意識した勉強をしなくなった。
折原臨也に借りた本を読んだり、文法を細かいところまでしっかりやったり、英単語の勉強はむしろ以前よりたくさんやっていたけれど。

「じゃあ、平和島君。次の段落から読んでくれる?」

話しかけられた声に、静雄は一瞬驚いて固まる。彼の声が静雄に向けられたのは、あの日以来だ。顔を上げれば、赤い瞳と目が合った。「さあ、どうぞ」という言葉で、ようやく静雄は我に返り、音読を始める。

すらすらとアルファベットを声にする静雄に、折原臨也は満足そうに目を細めた。黒ぶち眼鏡ごしにも長い睫毛が見える。その奥にある赤い瞳は、音読中片時も静雄から目を離さない。
居たたまれなくなって、急いで読み終えると、「エクセレント」と完璧な発音の誉め言葉をかけられた。
静雄は薄く紅潮した顔を伏せる。翻弄されている、のかもしれない。誰に、と問われたら、折原臨也に。

ではどうして、と問われたら、静雄ですらその答えがわからなかった。









放課後、静雄は図書室へと向かう。手にした薄い文庫は既に読み終えていた。
職員室に返しに行くべきかと迷いもしたが、何となく、折原臨也はあの日の場所にいるという予感がした。
根拠はないが、確信はある。

がらりと図書室の扉を開けると、そこには見慣れた友人がいた。

「門田」
「ん? 静雄か」

学ランを身に纏った門田は、読書を中断して静雄に話しかけてくる。
読んでいる本は伝記だろうか? 本当にどんな本でも読む男だ。

「図書室で会うのは久しぶりだな。最近、気に入った本とかあったか?」

その言葉に、静雄はちらりと手にした文庫を見る。
折原臨也が貸してくれた、まるで魔法のように面白い本。

「……内緒だ」

いたずらっぽく微笑む静雄に、門田はおかしそうに笑う。

「じゃあ、打ち明けたくなったら教えてくれ。好きな本は、いずれ誰かに勧めたくなるものだからな」

ああ、と静雄は了解の言葉を返し、門田と別れて本棚の奥へと進む。
古びた紙の香りと、静謐な雰囲気。図書室はどこか隔絶された世界のようだ。
蓄積される記憶の倉庫。これだけたくさんの本は、一体なにを思って書かれたのだろう?

「待ってたよ」

静雄の思考はひとつの声によって中断される。振り返れば、趣味の良いスーツを着た折原臨也が微笑んでいた。
しかし、なにかいつもと違う気がする。静雄はこの教師にそれほど詳しいわけではないが、その違和感は確実に感じた。
なんだろう? よくわからないけれど、彼はまるで何かに怒っているようだ。

「もしかしたら、君は彼氏に会いにきただけなのかなと一瞬思ったけどね。杞憂だったようだ」
「彼氏?」
「随分と、仲良しなお友達がいるんだねえ」

射抜くような視線はまるで鷹のようである。しかし、静雄はその視線に気づく前に、うっすらと赤い顔ではにかんだ。
「はい!」
「…………」
「俺、高校に入った時、新羅以外話せるやつができないと思ったんですけど、門田は気軽に話しかけてくれたんです」
「そう……、よかったね?」
「本当に」

静雄の輝くような笑顔に、折原臨也もつられてぎこちなく笑う。
その笑顔はまるで、戸惑ったような、困ったような色をしていた。

「先生は門田のこと知ってるんですか?」
「教えてはないけど、まあ色々とね」
「あいつ、すげぇいいやつなんです。こんな俺を友人にしてくれるくらい、懐の深いところがある」
「待って。それは聞き逃せないね」
「え?」

静雄が驚いて折原臨也を見ると、彼は妙に真剣な顔をしている。これは誰が見ても、怒っている顔だ。
何でだろう、自分はなにかまずいことを言っただろうか?

「門田は、いいやつですよ?」
「そこじゃない。『こんな俺』と言ったことだ」

折原臨也がなにを言っているのか、静雄は全くわからない。何を怒っているのか、どうして少し悲しそうなのか。
そんな静雄の様子を見て、折原臨也は軽くため息を吐く。そうしてすぐに、静雄が手にしている本に目を向けた。
「それ、面白かった?」
「え、あ、はい。全部読むのに凄い時間がかかってしまって……。返すのが遅くなってすいません」
「そんなの気にしないで。感想は?」
「よくわからないけど、とても惹き付けられました。ページをめくる指が止まらなくて、時間を忘れてしまったりもして……」
「そう、良かった」

それは俺の一番のお気に入りなんだ、折原臨也はそう言って微笑んだ。
いつものような作り物の笑みじゃなくて、滅多に見れないいたずらっぽい笑顔。
とくんと、鼓動が少し速くなる。

「俺はさ、その本をどこに行く時も手元に置いているんだ。そうしないと落ち着かなくてね」
「え、じゃあ、なんで」
「君に貸したかって?」

そうだねぇ、と折原臨也は呟いた。

「俺もよくわからないんだけど、どうしても君に読んでほしかったんだ。その本を貸したのは、君が初めてだよ」

自分に、自分だけに、そんな大切なものを貸してくれた。
そこには大した意味もないのだろう。ただ近くに“英文学に興味を持っている生徒”がいたから、この本の面白さを共感したかったのかもしれない。門田がさっき言っていたように、「好きな本は、いずれ誰かに勧めたくなるものだからな」ということなんだろう。

でも、それでも、折原臨也が静雄だけにこの本を貸したというのは紛れもない事実だ。その事実が、どうしようもなく静雄を揺らす。それは、静雄に信じられないことをつきつけようと迫った。

悪魔は囁く。

「ねえ、俺が大切にしている本を長時間借りられるくらいは、君には価値があると思わない?」

もうやめてくれ。わかったから。もう授業は十分だ。これ以上の補習なんて必要ない。
折原臨也を見ると高まる鼓動、彼からの特別扱いに喜ぶ心。ああ、もう自明なことじゃないか。

秋から冬に移ろうとしている十一月、静雄が折原臨也の授業で知ったのは、自らの叶わない恋心。






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