眠い、眠い。瞼が重い。 気を抜いたら、すぐにでも眠ってしまいそうだ。 爽やかな朝だとか、少し肌寒い気温だとか、そういうのとこの眠さは全く関係ない。身体を壊したわけでもなくて、ただ、一日やそこら睡眠を怠っただけだ。 静雄は基本真面目な性格なので、遅刻や居眠りをほとんどしなかった。だから今も、襲い来る睡魔と闘いながら、やがて来るだろう朝礼の時間をひたすら待つ。 今寝たら、確実に昼休みまで起きない気がした。 がらりと開いた扉と、半分しか開いていない目に映った男。 ああ、寝ぼけているからだろうか? 静雄にはその男の笑みが悪魔のように見えてならなかった。 10月 初対面 定まらない意識の中、静雄は不意に肩を叩かれた。 「静雄、大丈夫?」 心配したような声に右を向けば、苦笑した新羅の顔。 あれ? 自分は今まで何をしていたのだろう? 「大丈夫だよ。君は四限までちゃんと受けてから、死んだように眠っただけ」 「今は……昼休みか?」 「うん、まだ二十分はあるよ」 静雄は身体を起こし、下敷きになっていた自分のノートを開いた。若干字が乱れているが、ちゃんと板書をしてある。内容を見れば、うっすらと授業が思い出せた。 それとともに、頭の中に今朝の悪魔の微笑みが過った。朝礼時にクラスの担任と共に入ってきた、黒のシャープな眼鏡をかけた今まで見たことがない男。 「なあ、今日の朝礼に誰か来たよな?」 「あー、覚えていないんだ。まあ、君、半分くらい夢の中だったもんね」 新任の英語の先生が来たんだよ、新羅はそう言って複雑そうな顔をした。 その顔に疑問を感じながらも、静雄はもうそんな時期かとぼんやり思った。 静雄のクラスの英語を担当している教師が、確か十二月あたりに出産予定だと言う。本当は二学期が始まる前に臨時の教師と交代する筈だったのだが、何らかのトラブルにより臨時の教師が教鞭をとれなくなったらしい。それで急いで学校側が代わりの教師を探していると風の噂で聞いたが、なるほど一ヶ月で見つかって良かったと思う。 「けど、よくこんな時期に見つかったな」 「教員免許の取得試験を目指しながら講師をするひとって、意外と多いみたいだよ。まあ、今回はそのケースに当てはまらないんだけど」 「え?」 「代理の先生は、外国の大学で講師を務めてるんだって。久しぶりに日本が恋しくなったから、わざわざ休暇を取って三学期が終わるまでの六ヶ月間日本に滞在するそうだよ」 噂だけどね、と呟く新羅はやはり苦い顔をしていて、静雄はそれに首を捻る。新羅が皮肉っぽく話す様子を見たのは、もしかしたら初めてかもしれない。 「そんなことより、早くお弁当食べなきゃ。次は移動教室なんだから」 その言葉に時計を見れば、昼休みはもう十五分もない。静雄は慌てて鞄から弁当を取り出した。 彼の頭の中は、もう新任の教師のことをほとんど占めていない。 最後の授業は体育だった。種目は短距離。静雄は運動が得意だったので、普段は静雄を怖がって近づいてこない生徒たちからの歓声に少し照れ臭くなる。 思えば、三年の二学期になって、格段に話せるクラスメイトが増えたような気がする。静雄も最近は喧嘩を売られてもかわすすべを身に付けてきたし、自制もきくようになってきていた。君にも理性があったんだね、と軽口を言う新羅には、我慢せずにデコピンをくれてやったが。 「さすが静雄。君はアスリートの道に進むべきだよ」 「お前は医者でいいな」 「ひどいな、僕が平均並の脚力しかないからって。それって遠回しに『お前じゃアスリートになれない』って言ってるんでしょ」 「なりたいのか?」 「全く?」 新羅と他愛もないことを話しながら廊下を歩く。さっさと着替えて、手短な終礼を受けて、帰り支度を整えた。 帰る前に机の中をまさぐると、一冊の文庫本。そういえば、昨日返しそびれたんだった。明日返しにいくのも億劫で、なら今日返しに行こうと教室を出る。 放課後だから門田がいるかもしれない。そんなことをとりとめなく考えながら、図書室の扉を開く。 がらんとした室内には、何故だか生徒がひとりもいない。図書委員の指定位置である机にも、素っ気なく返却ボックスが置かれているだけだ。 静雄はそこに本を入れ、ついでだからと本棚に向かう。ついでだから、何か新しい本を借りていこう。そういえば、先日門田から勧められた英文学の翻訳書を思いの外静雄は気に入ったのだった。だから、自然と足は英文学の置かれている棚へと向かう。 その本棚は窓際にあった。 そして、朝見た悪魔のような男もそこに。 少し開かれた窓からふく風。それが夕陽を反射して赤くなったカーテンを揺らす。同時に、さらさらとした黒髪が揺れ動き、白く端正な顔に微かな陰を作った。 今朝の悪魔のような笑みは見当たらない。ひどく真面目な顔で、英書らしきものを読んでいる。 ページをめくる指は繊細で、けれども意外と男らしい。もしかしたら、自分の手より大きいかもしれない。その手には、ふたつのシンプルな指輪が―――、 「どうかした?」 話しかけられて、静雄ははっとする。 彼は今、俺に話しかけたのか。静雄はなんだか他人事のように思った。 「もしかして、本を探すのに邪魔だったかな?」 「あ、いえ。そんなわけでは」 「よかった。ねえ、君もイギリスの小説を?」 「……原書は、読めませんけど」 「そっか」 男はにこりと完璧な笑みを浮かべる。そこがまるで悪魔のようなのだ。 ひとを蠱惑する、妖しい微笑み。引き込まれたら、きっともう後戻りができない。 彼が英語の臨時教師なのだろう。うっすらだけど、確かに静雄は彼を朝礼で見たことを記憶している。彼の自己紹介も挨拶も寝ていて聞いていなかったが、静雄の席は後ろの方なので、この教師はきっとそんなことに気付いていないだろう。というより、静雄のことを認識していたのかも謎だ。 静雄はゆっくりと本棚に近づく。それを男は面白そうに見ていた。 「君、彼女はいるの?」 「……いませんけど」 「ふーん、じゃあ彼氏は?」 「え?」 なにを言っているんだろう、このひとは。 静雄は思わず首をかしげる。その表情はひどく無防備だった。 対する男も、今までの恐ろしいほど完璧な微笑みを崩して、ぽかんと驚いたように静雄を見る。 そして自分の腹に手を当てたと思ったら、少しだけ抑えた笑い声が図書室に響く。 「ははっ、しばらく日本にいなかったけれど、日本人の男子高校生ってこんなに純粋だったかな?」 「え、あ……」 「ふふ、君はそんな外見なのに、すごいギャップだね。いやあ、久しぶりに面白い子に出会った」 笑顔が、あの悪魔のようなものではないのに、何故か先程以上に静雄を惹き付ける。 鼓動はうるさいし、顔は熱いし、そのくせ頭の中は妙に明瞭で、眠かった午前中とは大違いだ。 「そうそう、平和島静雄君」 男はにっこりと笑いながら静雄の名を呼ぶ。なんで、名前を知ってるのだろう? 英語の授業はまだなのに。 静雄の近くまで来た男は、薄い文庫を静雄に手渡し、耳許でそっと囁いた。 「朝礼は、ちゃんと聞いておくんだよ」 そうして図書室に残されたのは、折原臨也と綺麗な字で名前を書かれた一冊の文庫本と、顔をうっすら紅潮させる静雄だけだった。 |