しんとした室内で、少し古い時計の音がやけに大きく響いている。時折、紙をめくる音と微かな息遣いが耳を掠めた。静雄は黙って目を瞑り、体の力を抜いて壁に寄りかかる。左右を本棚に挟まれたこの場所は、人目につかず逢い引きにはもってこいの場所かもしれない。そんなことを思いながら、すぐ近くにいる男を見る。本棚に寄りかかって分厚い本を読む男の横顔は、舌打ちしたくなるくらいきまっていた。

「ねえ、シズちゃん」

臨也はふわりと微笑んで静雄を見る。悪意の欠片もない瞳と声色。そんな穏やかな彼に、静雄はまだ慣れないでいた。

「夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものそ」

そう詠う臨也の声は澄んでいて、やけに甘ったるい。口ずさんだものの意味なんて全然わからないけれど、そんなとろけた瞳でこちらを見られれば、なにを言わんとしているのかさすがにわかってしまう。
そうして返事を促すようにこちらを見る臨也の視線を、今日も静雄はまっすぐ見返すことができない。熱くなった顔をうつむけて、ただただ時間ばかりがいたずらに過ぎていった。
長い沈黙の後、臨也は小さく笑い、再び分厚い本の方に目を向けてしまう。ぺらりぺらりとページを捲る音は、まるで静雄を責めるように彼の耳に大きく響いた。

こうして何も言えぬまま、静雄はまた初夏の暖かい図書室を後にするのだ。同じくらい卑怯な男を、ひとり図書室に残したまま。









いつ頃の話だろうか。多分、桜の花が散り始める季節だったと思う。
いつものように追いかけっこをしていたら、いつの間にかに図書室の中に迷い込んでいた。静雄は「図書室の中では静かにする」という常識を持ち合わせていたので、内心悪態吐きながらもゆっくりと静かに歩いて臨也の姿を探した。
奥へ奥へと進み、ようやく見つけたと思ったら、臨也は何やら分厚い本を手にしている。おそらく、装填からそれが古典全集かなにかだということはわかった。しかし、何故臨也がそんなものを持っているのか、それはよくわからない。臨也が古典好きというのは初耳であるし、古典の時間をさぼって静雄と追いかけっこをすることも多々あったのだ。
自分を殴る武器代わりにでも使うのだろうか? 静雄が首を傾げながら臨也を見ていると、彼はくすくすと笑う。ひどく優しげな、そして少しからかうような雰囲気をまとって。
静雄はぴしりと体を硬直させる。そんな天敵の顔を静雄は今まで一度も見たことがなかった。折原臨也という人間は、平和島静雄を憎み、嘲り、陥れ、脅かす存在だ。そんな、愛情にも似た感情を与えてくれる者ではないのである。
けれど、臨也はまるで嘆くかのような声をして、それを口ずさんだのだった。

「風吹けば峰にわかるる白雲の絶えてつれなき君が心か」

臨也は静雄の目をちらりと見て、返答がないのを知ると肩を竦める。そして、静雄のすぐ横を通りすぎるその時に、手にしていた分厚い本を押し付けてきた。
臨也が立ち去ってからしばらく後、静雄は開かれていたページをそっと見る。

―――風が吹くと峰で吹き分けられて絶える白雲のように、一向にそっけないあなたの心であることよ。

ばたん、と大きな音を立てて本が落下する。驚きすぎて、いっそ泣き出してしまいたかった。
投げ掛けられた言葉の意味など知りたくなかった。天敵と自分との間にある複雑な感情なんて知りたくなかった。そして、こうやって遠回しに告げてくる天敵も、依然として知らないふり続けようとしている自分も、等しくずるいと思った。

次の日が来ても、臨也との日常に変わりはなかった。顔を合わせれば喧嘩は絶えず、臨也は嘲るような笑みを静雄に向ける。しかし、時折図書室で行われるこの奇妙なやり取りは、日に日に頻繁になっていった。
静雄は臨也からの言葉の意味を考えることを放棄した。その度に臨也は静雄を責めるように微笑む。自分だってそんな遠回しにしか伝えてこないのに、静雄にははっきりとした返事を求めるのだ。いい加減、静雄の我慢も限界だった。











そうして、今日もまた繰り返される。臨也に誘導され、静雄はこうやってまた図書室に足を踏み入れた。
臨也はにこやかに笑み、分厚い本をぺらぺらめくる。きっと今日も変わらずあのとろけるような声を、瞳を向けられるのだろう。そうしたら、静雄はたじろいでなにも口にすることができなくなってしまうのだ。

「嫌いだ」

だから、言われる前に言えばいい。静雄は鋭い視線を臨也に向ける。対する臨也は、やわらかな微笑をサッと無表情にかえた。
両の瞳は氷のように冷たい。言外に、「うそつき」と罵られているような気がした。
嘘じゃない。臨也なんて嫌いだ。大事なことをこんな回りくどく、遠回しに伝えてくる男なんか好きなわけがない。ずるくて、卑怯で、こちらのことなんてまるで考えないような男が静雄は嫌いだ。

しかし―――脳裏に浮かぶのは、愛を囁く声や瞳。

なんて正直なのだろう、と思った。天敵である男から好意を向けられていることを、ちっとも疑うことなく信じられてしまうくらい、それらはまっすぐに気持ちを伝えてきた。だからきっと、静雄はなにも答えられないのだろう。臨也の遠回しな告白を、一蹴することができないのだ。

「手前の回りくどい言い方は嫌いだ。ややこしくて、腹が立つ」
「……え、」
「一言でいいんだ。短くても、趣向を凝らさなくてもいい。ただその一言を言ってもらえるなら、俺だっていいかげん素直になって―――」

好きって、言えるのにな。

ばさり、と大きな音が図書室の中に響く。それはおそらく、臨也の手から分厚い本が滑り落ちた音だろう。反射的に落下した本を見た臨也に、静雄はそっと囁くように話しかけた。

「落ちたな」
「……」
「拾わなくていいのか?」
「黙って」

臨也は静雄の腕を乱暴に掴み、自分の方へと引き寄せる。そして、されるがままの静雄の体を抱き寄せ、耳許に唇を近づけた。

「あんなものもういらない。君が手に入らないなら、あんなものに価値なんてないんだよ」

怒りの滲んだ声は低い。けれど、その声が紡いだたった二文字は、今まで聞いたどんな言葉よりも静雄を揺らす。甘くて優しげな声よりもずっと、その声は正直に「愛している」と伝えてくるのだ。ああ本当に、静雄の足元に転がる本に何の価値があるのだろう? 凝った言い回しなんて聞かなくても、その声を聞けば全てがわかる。

「俺も、好きだ」

人気がない図書室に、その声は思いの外大きく響いた。その後すぐに舌打ちが聞こえたと思ったら、不意に背中に腕を回され、隙間を埋めるように抱きしめられる。古い紙のにおいと夕暮れに照らされる本棚に囲まれて、ふたりの姿は人目につかない。もうしばらくこのままでいたい、と静雄は思う。だから黙って近くにある背中に腕を伸ばした。




瞬きの間に伝える言葉






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