臨也と静雄は別の学校という設定です。
このまさんへ!



 ひやりと冷えるホームから暖かい暖房に包まれる電車の中へ。いつもと同じ車両のいつもと同じ席に座る。
 電車が動き始めると、ようやく今日が始まった気がした。ひとつめの駅、ふたつめの駅を過ぎて臨也は昨日と同じ文庫に視線を落とす。文字なんて、知らない言葉の羅列のように頭の中には入ってこないのだけれど。
 みっつめの駅に着いて、臨也は大きく息を吐いた。電車の扉がもうすぐ開く。それまでの数秒間が生き地獄のように長く、けれどもひどく歓喜と幸福に満ちた瞬間だった。
 扉が開く。
 冷たい風と共に、今日も彼が電車に乗り込んできた。







 朝日が眩しい。冷え切った空気に吐き出す息は白く、手袋をしていてもその指先は冷たかった。
 朝のプラットホームにひとはまばらだ。通勤ラッシュの時間帯よりも少し早いからかもしれない。臨也は別段満員列車を好んでいるわけではないけれど、早朝の寒さよりは断然マシだ。身体が凍てつくような寒さに、以前の自分だったら学校に遅刻して行ったり無断欠席をしたりしていたかもしれないとぼんやり思った。成績優秀な臨也にとって、学校とは出席日数分だけ登校すればいいと考える程度の存在だった。
 学校で臨也を楽しませるだろうことは全てもう経験済みだった。そうなると、彼はもはやあの小さく閉鎖的な空間だけでは満足がいかず、その目を外部へと向け始めていた。

 だが、ある日を境にして臨也は再び狭い世界へと押し戻される。
 ある日の朝、いつもより早く目覚めてしまった臨也は、学校の始業時刻よりかなり早めに家を出ることにした。特に理由はない。ただ、ふと朝早くの電車の静けさというものを見てみたくなったのだ。
 電車内の人間は、通勤に時間がかかるサラリーマンや朝練があるらしい学生がほとんどだった。昼間のがやがやとした騒々しさはない。なかなか変わった空気が流れる車内は、けれども毎朝早起きをしてまで見るべき光景ではないだろう。特に寒い冬に心身を冷やしてまで見るほどの価値はない。
 見たことがないものは見てしまえば一気に価値がなくなる。臨也は瞳を気だるげなものにと変えた。なにか退屈を紛らわせるものはないだろうか、と思考を巡らせていると、そういえば鞄の中に昨日新羅から借りた本が入っているということを思い出した。
 今読んで今日中に返してしまおう。そう思って臨也が本を開いたのは、電車に乗ってからちょうどみっつめの駅に着く直前だった。
 本のページをめくる。その後に電車の扉は閉まり、ガタンと音を立てて次の駅へと発車した。足音で乗り込んできた人間のひとりが臨也の正面に座ったことに気づき、なんの考えもなく彼は反射的に正面の席を見遣る。

 衝撃的だった。

 脱色した髪の色やすらりとした体躯。もちろんそれらもひとの目を引くのに十分だ。だが、臨也はそれよりもその男子生徒の雰囲気に圧倒された。どこを見ても集団として起伏がなく平凡な人間ばかりなのに、彼はひとり違う。その輝くような存在感に臨也は時間が過ぎるのを忘れた。
 気がつけば、プシューと電車の扉が開く音がする。金髪の彼は少し眠そうな顔をしたまま、立ち上がって電車から出て行った。寒いのか、マフラーに顔を埋め、細い背中をすこし折り曲げて、手袋をしていない手をコートのポケットに突っ込んだ。
 彼が立ち去った後も、臨也はその衝撃から解放されなかった。むしろ、頭の中には男子生徒の残像がこびりついて離れない。動揺しながら電車を降り、結局1ページも読めなかった文庫をぎゅっと握りしめる。
 あの少年が何者か、調べるのは容易い。臨也は最近、自分が得たい情報を収集する術を知った。だから、右のポケットに入っている携帯電話を使えば、学生ひとりの個人情報ぐらい容易く掴むことができるだろう。
 だが、臨也はそうはしなかった。代わりに、それから毎朝苦手な早起きをして、わずかな時間でも彼を見るためにあのひとがまばらな電車に乗った。
 これはきっと単なる興味本位ではない。毎日見ても飽きず、それどころか更に焦がれる感情。臨也の全てを奪いつくしたあの少年に、自分は恋をしているのだ。







 新羅から借りた本は、1か月で3ページも進んでいなかった。
 なかなか本を返せないことを詫びると、新羅は何も知らない癖に、何でも知っているような顔をして、「いつでもいいよ」と笑った。
 新羅の、深くは触れてこないが、そっと見守っていてくれるその優しさが今は少しありがたかった。だって、彼に相談してもきっとこの恋は解決しない。そして、臨也はこの恋を言いふらすようなことはどうしてもしたくなかった。
 まさか自分が、何かを得ることにばかり躍起になっているこの自分が、見ているだけで満足を覚えるだなんて、そんな純情を誰が信じるだろうか。新羅ですら、冗談だと思うかもしれない。それを何より自分自身が今でも信じることができない。
 ひとは誰しも暗く澱んだ感情を持っている。だから、濁ったものに勝るものはない。臨也はそう思っていた。だが、そんなの無知ゆえの発言でしかなかったのだ。あんなに純粋から遠ざかっていた自分が謙虚になるくらい、金髪の彼は眩しかった。
 学校も、学校から出たアンダーグラウンドな世界も、所詮変わらないのだ。慣れてしまえば退屈を感じる。どこまでも深く深く手を出しても、飽きてしまえばそこまでだ。
 それなのに、この朝のひとときは一向に臨也を飽きさせてくれない。ある意味、今まで手を出してきたどんなことよりも耽溺させられた。
 ページをめくる。ようやく。4ページ目だ。
 それでも、なかなか物語は進まない。ひとつのセンテンスを理解するのにどうしてこんなに時間がかかるのか。何度もなぞるように文字を眺めていると、深い色のコートの上にある寒気で白くなった彼の手が視界に映った。
 その手を、できることなら、そのかたちを自分の手が覚えるまで触って、なぞってみたい。

「おい」

 ハッとした。近くから聞こえるその声は少し低めで、そしてやっぱり眠そうだった。
 もしかして、今の思いを思わず口に出してしまったのだろうか。臨也は背中に冷たいものを感じる。暖かな暖房の中、文庫を持つ指先がひどく冷たかった。
 恐る恐る視線を上に向けると、彼が臨也の目の前に立っていた。

「本、進まねえな」

 一瞬なにを言われたのかわからなかった。だが、彼の視線が臨也の手元にあると気づいて、臨也は慌てて言葉を返す。

「あ、たぶん、朝だから眠いんだと思う」
「ふうん。もったいねえ」
「え?」
「それ、早く最後まで読めよな。面白いんだから」

 電車が止まる。彼が降りる駅に止まったのだ。
 それでも彼はまだ臨也のことを見ていた。彼の少しだけ色の薄い瞳が、こちらの全てを暴くかのように。
 そして、その瞳は臨也をからかうように優しく細められた。

「そんなに気になるなら、今度から声かけろよ」
「え、」
「そんなにチラチラ見られちゃあ、俺もお前が気になっちまうんだよ」

 少し照れたような目許はほんのり赤い。
 その顔を隠すかのように素早く電車から降りて行ってしまった少年の背中を、臨也はずっと見ていた。目が、離せなかったのだ。
 臨也の本のページがほとんど進んでいなかったことを見抜くくらい、彼は自分を気にかけてくれていたのだ。自分のことを、見ていてくれた。

 本当に、これ以上俺からなにを奪うというのか。

 臨也は完全に骨抜きになってしまった身を席にうずめ、明日からの展開を思って身を震わすのだった。



奪われた心臓






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