20を超えた日々也に、父王はある日突然ひとりの男を連れてきた。 さらりと流れる金の髪に、透き通った桃色の瞳。白いスーツとピンクのワイシャツという派手な出で立ちは、それでも彼だからこそか、よく似合っていた。 日々也には特定の執事や従者などの臣下がいない。 病弱だった少年時代、父と母が心配した為にこれでもかというほど過保護に育ち、接する者と言えば、メイドか家庭教師だけだった。 加えて、大切なひとり息子に何かあったら大変だという理由で、日々也の専属の執事の選考はかなり綿密に行われた。 万が一その執事が敵国のスパイじゃないように、そして、並々でない教養や立ち振る舞いを有しているように。幾人もの人間が審査されては、父王は首を横に振る。他の国に行けば宰相にでもなれるのではないかという人物でさえ、父王がしかめつらを微笑みに変えることはなかった。 そうなのだから、父王が連れてきたひとは、どれぼど優秀な人間なのだろう? そう思って対面した日々也の目には、金髪の男が何故そこまで父に気に入られたのか、よくわからなかった。 だいたい、目の前にいる男は日々也と同じくらいの年頃だ。自分よりいくつか年上である程度ではないだろうか? 日々也が想像していたのは、初老かもっと年のいった、厳格な男だった。だが、彼は厳格どころかうっすら微笑をその顔に称えている。軽い感じのこの男が、王家の嫡男の執事を務めるほどの気品を備えているとは思えない。 父はその男と日々也を引き合わすやいなや、さっさとひとりだけ部屋から出て行ってしまった。 少しだけの沈黙の後、金髪の彼が日々也の元まで歩いてくる。 背の高い、姿勢の良い、無駄のない動き。さっきは気品がないなど思ったが、それはどうやら日々也の勘違いだったようだ。足音が鳴らないほどの足取りは、むしろ軍人のそれと酷似していたが。 「お初にお目にかかります、日々也様。私の名前はデリック。貴方に仕えるために王から遣わされました」 「……そう」 何だか無性に腹が立った。何故かはよくわからないけれど、とても。 だから日々也は、今までしたことのない酷薄な笑みを口許に浮かべ、意地悪な問いをデリックに投げかけた。 「君は、俺が望めば、なんでも叶えてくれるの?」 「はい」 「それが……同衾を示唆する命令でも?」 デリックはきょとんとしたのち、すぐに顔を艶やかなものに変えた。 それはまるで、日々也を子供のように見なしている顔。 「いやあ……勉強不足でした。この国の嫡子である貴方の性癖が、まさか男にあるとはね」 「なっ!」 それは違う。今のだってただデリックをからかいたかっただけであるし、日々也に男色の気はない。 しかし否定しようとした言葉は、デリックに手を握られた時の驚きで、消えてなくなってしまった。 「構いません。貴方が望むならば、私はそれに従うまでですから」 そう言った後、デリックは恭しく日々也の手の甲に唇を落とした。 腹が立つ。よくわからないけれど、無性にイライラする。 ひとつだけわかるこの焦燥の原因は、おそらく自分の性癖を完全に変えられてしまうくらい、デリックという男が好きになってしまったためだろう。 デリックは日々也が想像した以上に有能だった。 日々也のお供でついてくる乗馬も、テーブルマナーも、立ち振る舞いも、スケジュール管理も、何事も完璧にこなした。そして、メイドからかなりモテたというのに、爽やかながらも油断のない笑顔を彼女たちにむけ、決して羽目を外さぬようにと釘をさす。 デリックは父にも母にも気に入られているし、女だけでなく男の使用人や、古参のものなどからも頼りにされていた。 それでも、と日々也は思う。彼はまだ若いから、父があらさがしをすれば、いくつでも欠点が見つかっただろう。実際、そんな風にして、いくら有能な人物でも父は満足せずに欠点を言い並べて追い返した。 なのに、なぜ、デリックだけはこんなにひいきにするのか。 わからないな、と小さく呟くと、なにがです? という言葉が返ってきた。 「あ、いや、ここが……」 「ああ、確かにここは面倒なところですね」 楽譜を見て、デリックは少し眉をしかめる。 日々也は帝王学の他にも、乗馬や絵画、音楽なども積極的に学ばされた。それは病弱であまり家から出られなかった幼少の彼を、両親が憐れんだからなのだろう。退屈を紛らわせる趣味ができたらというわけだ。今は黒いグランドピアノの前に座っている。 正直、ピアノはあんまり得意じゃない。日々也は他にヴァイオリンもやっているが、そちらのほうがよっぽど上手い。 けれども、彼はピアノの織り成す繊細で詩的なメロディが好きだった。だから、弾きたいというか聞きたい。病床の日々也を癒してくれた、遠くへと響くピアノの旋律を。 その時、不意にポーンという音が室内に響いた。ピアノを見れば、デリックが鍵盤に指を置いて音を確かめている。 その表情は、ぞっとするほど美しい。 「……もしかして、デリックはピアノが弾けるの?」 「弾けるというか……昔少しかじった程度ですけど」 少し照れたようにいうデリックを、日々也は初めて見た。彼はよく多くのひとから賞賛されるが、それに対して謙遜しつつ卑屈にもならず、少しだけの誇りが滲み出る笑みを浮かべていたはずだ。 もしかして、ピアノを弾くのは苦手なのだろうか? 日々也はその可能性に思い当たり、慌てて話題をかえようとした、その瞬間―――、 大量の音に身体を囲まれた気がした。 踊る指先、歌う旋律。音符のひとつひとつがきらきらと輝いていて、少しも無駄がない。 なんて音を、なんてメロディを紡ぐのだろう? まるで夢のような音。どこにもないはずの、ユートピアが今ここにあるような錯覚を抱いてしまうほどの。 デリックの桃色の瞳は濡れて揺れる。綺麗だな、と日々也は純粋に思った。 今まで色々な豪奢なものを見てきたし、その中にはたくさんの宝石もあった。大粒のきらきら輝く透き通った鉱物。それがただの石ころに思えてしまうほど、その瞳に惹かれた。 メロディはまだ続いている。日々也の大好きなピアノの旋律が。それなのに彼の体は予想外な動きをして、何故だかピアノを弾いているデリックの手首を掴んでしまった。 デリックは少し驚いた顔をして、慌てて口を開く。 「悪い!俺……じゃなくて、すみません、勝手にピアノを弾いたりして」 「いい。言葉遣いも、今みたいなのでいい」 「しかし……」 「すごく素敵だった」 え、とデリックは小さい声で呟く。いつものような、大人っぽい顔はどこにもない。 日々也はデリックの手首を掴んだまま、そっと彼の耳元まで近寄った。 すごい素敵だった。ピアノだけじゃなくて、君が。 そう囁けば、デリックは顔を薄く紅潮させる。それはまるで、デリックを見て赤面する若いメイドと同じように。 彼は自分のものだ。デリックがメイドとの話を早々に切り上げる度に、日々也は心のどこかでそう思った。 彼は君たちに時間を割いている暇は無い。だって、彼は俺のそばに行かなければならないのだから。 そう思って、日々也は自分が少し傷ついていることに気付いた。 全く、苦笑してしまう。自分はこの関係を利用しつつもそれによって傷ついてもいるのだ。 日々也が仕える相手だからそばにいてくれるデリック。つまり、彼は日々也に忠誠という契約を結んでいるに過ぎないのだ。 だからそばにいる。それは日々也がデリックに向ける感情とは、あまりにも違っていた。 けれど、こんなに近くにいて、触れてしまうほど近くにいて、自分を自制できるほどその想いは小さなものではなかった。 だから弱い自分は使ってしまう。弱いがゆえに、この後戻りのできない特権を。 「今から、君を抱く」 異議はある? そう聞いた時の日々也の目は獣のように爛々と光っていた。 デリックは初めて会った時のような余裕気な表情をせず、ただ少しだけ泣きそうな顔をして、笑った。 馬に乗って、遠乗りに出かける。いつもとは違って、ひとりで。 日々也はため息を吐く。なんてことをしてしまったのだろう。あんなことをしたって、どちらも傷つくだけじゃないか。 それでも、後悔をしていても、日々也はデリックの媚態を繰り返し思い出し、その記憶に浸っていた。 真っ白な肌と、予想以上に華奢な肢体。快楽に戸惑うような赤い顔がかわいくて、事が終わるまでずっと興奮していた。 しかし、いざ終わってしまうと、日々也は自分の顔が青ざめていくような心地がした。 やってしまった。こんな、まるで性欲処理のような形で。 日々也はそんなつもりはないけれど、デリックは絶対そういう風に思っただろう。男色の主人にとうとう貞操を奪われた。それはいくら覚悟済みのことだとしても、ショックだったに違いない。 そう思うと、自然と体はデリックを避けてしまう。 気まずさは回避したい。 そして何より、デリックのあんな姿を知ってしまったのだ。またそばにいたら、耐えられるわけがない。 そうしてずるずると性欲処理のような関係が続いてしまうことを、日々也はひどく恐れた。 もういっそ、デリックを解雇してもらおうか。日々也が一声言えば、いくらデリックが気にいられていようと、すぐにこの城から追い出されることは確実だ。 けれども、おそらく自分はそれをできない。簡単な話だ。日々也はもう完全にデリックに依存しきっている。彼がいない人生など、空しい灰色に思えてしまうほどに。 湖の近くまで来て、日々也は馬から降りる。そして、湖の近くまで歩み寄った。 透き通る水面を見ていると、デリックのいない人生を歩むくらいならこの水の中で死んだ方がマシのように思えてくる。冬の湖は厳しく、けれども優しく日々也を死に導いてくれるだろう。 ぱしゃっ、と足を入れて、日々也は少しだけ笑った。馬鹿馬鹿しい。これぐらいのことで簡単に命を落とすなんて、命の冒涜もいいところだ。そう思って陸へ上がろうとしたその時、 「このっ、馬鹿野郎!」 腕を思いっきり引っ張られた。 思わず振り返ると、必死な顔をしたデリック。その顔は怒りに満ちていた。 もしかして自殺しようとしているように見えたのだろうか。 それならば誤解を解いてやらなければ。そう思って口を開こうとしたが、それは叶わなかった。 デリックが泣いている。 抱かれることを強要された時だって、彼は生理的な涙しか流さなかったのに。今ここで日々也が死ねば、これ以上同衾を強要されないのに。それなのに、どうして、どうしてそんな―――、 「どうしてそんな悲しそうな顔をするの?」 「何を言って……」 「俺が死ねば、君は色んなことから解放される。自由になれる」 「っ、自由なんて、」 濡れた桃色の瞳がギッと日々也を睨む。肩を強い力で握られ、相対させられる。 「いらないんだよ、そんなん。自由とか、解放とか。そんなもん、俺にとっちゃ怠惰と同じだ!」 「それが怠惰なんだとしても、自由でなければ、君はまた、俺に抱かれる」 「抱きたきゃ、いくらでも抱けばいい。ただな、そうやって特権を利用して俺を抱くんだったら、そんな、泣きそうな顔して抱くんじゃねえよ!」 ハッとした。だって、泣きそうな顔をしているのはデリックであって日々也ではないのに。 けれど水面に映った日々也の顔は、確かに今にも泣き出してしまいそうな表情をしていた。 「大体なあ、お前はどうしたいんだよ? 何で俺を抱きたい? 性欲処理か?」 「っ、違う! 俺は君の事が……」 「じゃあ、なんで“命令”するんだ。まるで暇つぶしのように言ったって、お前が悲しいなら誰の得にもならない」 なあ、とデリックは穏やかな声で言う。 「お前と俺の立場上、お前が軽々しく自分の気持ちを口に出せないとはわかっている。確かに、俺はお前に言われれば、なんでも言うことを聞くから。なら、今だけは俺はお前の家臣をやめるから。ちゃんと俺として答えるから」 だから、お前の気持ちを聞かせてほしい。 ああ、なんでこんなに彼は優しいのだろう。彼を凌辱したのは日々也だというのに。 縋ってもいいのだろうか? 自分の執事としてのデリックではなく、彼自身に。なんの契約も、ないというのに。 桃色の瞳を見つめる。その瞳は日々也のことだけ見ていた。 ああ、自分はこの瞳が王子としての日々也を見ることが嫌だったのだ。だから、腹が立った。無性にイライラしたのだ。 「君を愛してるんだ」 呪縛だらけだったはずのその言葉は、デリックのピアノの旋律のように、軽やかに日々也の口から踊り出た。 「そういえば、どうしてここにいたの?」 一緒に湖の近くの木陰に腰を下ろしてから、不意に日々也はデリックに話しかけた。 デリックは先ほどまでの乱れた口調を正し、ぼそぼそと小さく返事をする。 「日々也様が私を置いてひとりで遠乗りに出かけようとなさるから……ついてきました」 「……」 拗ねるデリックは、メイドに人気のかっこよさがどこに行ったのか、まるで女の子のように可愛らしい。 それに見惚れたのが何だか少し悔しくて、日々也は話題を変えた。 「そういえば、どうして君は父に選ばれたのかな?」 その言葉にデリックはきょとんとする。 「日々也様は王からお聞きになっていないのですか?」 「デリックを俺の直属の執事にした理由を?」 「ええ。てっきり、もうご存知かと。」 「そんなの聞いてないよ」 「そうですか……」 デリックは少し考えるようにうつむいてから、すぐに日々也の方に向いた。 「王は、私の才能というよりか、年齢を気にされました」 「歳?」 「ええ。私がまだ若くて未熟でも、王がご存命のうちはどうにかなりますし、他にも王の古参の臣下の者どもがいます。けれど、王としては、生涯日々也様を支えることができる者を執事に指名されたかったらしく、だから日々也様の執事の候補が来るたびに、頭を悩まされていたそうですよ」 「ああ……」 若い王子には、年配の少し厳格で優秀な家臣を。それが通例なので、日々也の執事志望で来たひとは、確かにみな歳を重ねていた。 そのほとんどが父よりも年上だったのだから、なるほど道理で父が頷かないわけだ。 「それと、」 デリックはいたずらっぽく笑う。 「王は、私を一目見た瞬間、日々也様が私に惚れるだろうと気付かれたそうです」 「なっ!」 「病弱で友人のあまりいない孤独な心を君に癒してもらいたい、だそうですよ。私は貴方を癒せましたか?」 くすくす笑うデリックと父に日々也は悪態を吐く。 それではまるで、日々也の気持ちはすべて見透かされていたみたいだ。なるほど、食事の席でのあの嫌な微笑みはそのためだったのか。 今度は日々也が拗ねたような顔をして、ごろりと木の下に転がる。すると、デリックの手が優しく日々也の頭を撫でてきた。あの美しい旋律を生み出す、綺麗な手のひらで。 暖かい。 その手には優しさの他に愛が籠っているようで、日々也はたまらず起き上った。 「ねえ、どうして俺の告白に頷いたの?」 父に自分を癒すように言われたから? それは恐くて口にはできない。けれど、日々也の表情で察したのか、デリックはうっすらと苦笑する。 「ほんとに貴方は疑り深い。そして……痛いところを突きますね」 「え?」 「貴方の目が、少しだけ恐かった。だってあんなにも熱情を込めて私を見るから。“執事”という皮が破れてしまいそうになるほど、あなたの赤い瞳に惹かれました」 「嘘、俺、そんな目で見てた?」 「……俺がピアノを弾いた日が、一番ひどかった。ピアノを弾いた後とかも、すごく、その」 日々也はポーカーフェイスを保っていたつもりだが、それはどうやら違うようだ。 まさかそんなに顔に感情を出してしまうとは。まだまだ王子として未熟だ。 しかし、良い事を知った。デリックが日々也の熱情にやられてしまったこと。それならば―――、 日々也は素早くデリックの腰を引き寄せ、鼻と鼻が触れ合いそうになるところまで近づけた。 驚いたデリックの顔が次第に紅潮していく。なるほど、こうやって欲望を曝け出した顔が彼は好きなのか。 「日々也さま!」 「ねえ、日々也様も良いけれど日々也って呼んでよ」 「それは……」 「でなきゃ、ここでしちゃうよ」 サーと顔を青ざめるデリックは、ここで何をしようとしているかを察したようだ。 野外でしても楽しそうなのに。日々也はそう思いながら、唸っているデリックを見た。 やがて決心したのか、デリックはキッと日々也を見据える。日々也が好きな桃色の瞳。 潤んでいるピンクは、もっと好きだった。 「ひ、びや」 耳まで真っ赤な、乙女みたいに恥じらう顔。 ああもう、本当に彼は大人なのか純情なのかわからない。 まあ、名前を呼ばれただけで興奮する自分も自分か。日々也は苦笑してから、デリックの唇に自分のそれを重ねた。 愛を語る瞳 王が新羅で妃がセルティだったら素敵 |