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「ばかやろう」
雷蔵さんが聞こえるか聞こえないかギリギリの声で呟いた。ばかじゃないよ、雷蔵さんよりは少なくともマシだよ。そう言いたかったのに声が出ない。おでこにピタリと冷たい手が置かれる感覚。こんなのいつぶりだっけ。
「風邪引いてんじゃねえか」
「でも、雷蔵さんもうすぐ練習の時間」
「寝ろ」
低いトーンでそう言われると従うしかないわたし。じーっと雷蔵さんのほうを見てるとぽんぽんと頭を撫でられる。ばか。おじさんのくせに。そんな恋人みたいなことするな。頭の中にたくさんの皮肉が湧き上がる。こういうときに限って思考は冴えてるもんだから嫌になる。雷蔵さんは奥さんに逃げられたと言っていたけど離婚の判子は押してないんじゃないかとか。息子くんは定期的にお母さんに会ってるんじゃないかとか。こんな一文無しのおじさんがここまでどうやってあんなおっきな息子くんを育ててきたのだ、とか。
「雷蔵さん」
「なんだ?」
「寝たら部活行ってくださいね」
「わかったから寝ろ」
きっと雷蔵さんは優しいから寝ても部活なんて行かないのかもしれない。もしかしたらおいしいご飯を作ってくれたり、なんてして。そんなことあの人に出来るのかわからないけども。いや、でも雷蔵さんが台所に立つ姿は見たことがないし料理を作ってもらったこともないから、どうなんだろうな。高校の調理実習が最後だったりして。そんなことを考えるとついクスリと笑ってしまう。起きたらニヤリと笑って熱下がったかー?なんて言う雷蔵さんがいてほしい。すごく、すごく。
心と行動が違うのがいい女、ではないと思うけどわたしはそうする。雷蔵さんには本当に迷惑かけたくないから。だから行ってって言う。そしてわたしの本心を見破ってほしい。なんてわがままでおこちゃまな女なんだろう。少し笑える。
「はやく寝ろ」
「はいはい、おやすみ雷蔵さん」
「おやすみ」
目を瞑る。真っ暗闇。きっとすぐに熱は下がるだろう。大丈夫だから行ってと言うわたし、実はこっそりこのままいてほしいと思ってるわたし。わたしのすべて、おやすみなさい。
20131215