そのた | ナノ


夏は都合が良い

 


「楽したい…」


ぽつりと、何となしに呟く。みんみんと蝉の煩い真夏に太陽光が差し込む部屋で男が二人、テスト用紙と睨めっこしていた。この部屋は唯一空調が無い部屋で、夏は肉まんのように蒸され、冬は冷凍庫レベルで冷える。
そんな部屋で汗を流しながら採点している俺が誰に向けた訳でも、自分に言った訳でもなくただ頭に浮かんだ言葉を暑さで溶けかけた脳が先程の一言を口から吐き出させた。向かいの机に居るのは汗を一つも流さず涼しい顔で此方を睨みつけてくる目付きの鋭い先輩。


「……」


じとりとした視線は「仕事をしろ」と言っているように感じられる。勿論、言う前から手は赤ペンを持って止まる事無く動いているし、目は左手に持つテストの答えと睨めっこだ。そんなに見つめられなくても仕事はしている。


「……冗談ですよ」


とはいえ睨みつけられたままでは仕事もしづらい。誤魔化しの一言を呟くと視線は教科書に向いたようで少し安心する。あの生真面目系男子に目をつけられては後々が面倒だからだ。
ていうか、この時間は授業中の筈じゃないんですか。


「…冗談を言う暇があるのならば、仕事を増やしても良いが」

「勘弁して下さいよ。手と目が動くついでに口を動かしてるだけじゃないですか」

「煩わしい、黙してすべしだ」

「おや、それは失礼」


すっぱりと一刀両断されて会話は終わった。黙々と仕事を終わらせるべく手と目を動かす。会話はこれっきりで「お前達は帰らないのか?」と夏候惇先生が部屋を覗くまで何事も無かった。本当に。




そして帰路。


「……」

「……」


無言。何も喋らない。いや、別にペラペラと喋って欲しいわけではないし、それはそれで面白そうだが見るのは怖い。真顔で喋るのか、それとも普段のこのクソ真面目な顔からは想像もつかないような顔で喋るのか気にはなるが。
と、気付かぬ内にじろじろと顔を見ていたようで、煩わしかったのか睨まれてやっと気付いて目を逸らした。


「何の用か」

「別に用はありませんが」

「では何故私の顔を見ていた」

「あー…ま、無意識に」

「……そうか」


おや。
目線だけをこっちに寄越してそれだけで終わってしまった。もう少し小言を言われるかと思っていただけに肩透かしを食らったような気がしないでもない。
暗いせいか顔色はよく見えないが怒ってはいないようだ。特に問題も無さそうだと判断した上で、先程の喋る時の顔を想像する為に思考を潜らせた。


「………賈先生」

「…え?」


知らぬ間に表情の話が生物の話まで吹っ飛んでいて、うんうんと考えていれば目の前に顔があった。思わず思考は停止し少しの沈黙が過ぎたあと後退りする。
目の前に仏頂面があったらそりゃ驚いて一歩や二歩の後退りくらいするだろう。俺がしたみたいに。


「…于先生……あの、何か」

「…いや」

「えーと、その、そんなに肩を落とさなくても」


反応がお気に召さなかったのか、于先生は背を向けると暗い雰囲気を漂わせながらとぼとぼと歩き出した。
普段あれだけ自他に厳しい先生のこんな姿を見たら生徒は何人か信じられなくて笑い出しそうだ。想像してみたら俺が笑いそうになったのは内緒で。一先ず話を聞いてるのか聞いてないのか足を止めない于先生を追いかける。


「悪かったですって、帰ったら酒でも飲みます?」

「…別に構わないが、明日は文和が監督官だろう。飲み過ぎは困る」

「あ、え、っていうか、今」

「何だ」

「…えーと、まだ学園近いんで、せめて家で…は駄目ですかね」

「ならば早く歩くのだな」

「…分かりましたよ」


不意打ちとはいつの時代も恐ろしい威力を持っていると思う。この程度で不意打ちとか言ってしまう辺り、大分この生活に慣れたと感じもするが。
報復として暫く于先生と呼ぶ事にした。顔が熱いのは、夏のせい。







は都合が良い

(いっそ同じように呼べばやり返せるだろうか)



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