まだ残る傷痕に触れる
長い事、外を見ていない。外もそうだが、青かった空や暗くも明るかった満月の夜、あとは四季折々の情景。この石だらけで無機質な場所にはそんな色など欠片も無い。覚えていたはずの人の顔も段々と靄がかかったように霞み始めてきた。
「空の青は忘れたが、あの青だけは嫌に覚えている」
忘れようにも毎日毎日、目の前で見なければいけない状況にいれば否応無しに目と頭はその色を覚えてしまう。他に覚えていることと言えば。
「血の臭い。と赤と黒、に」
肉の抉れる感触。
得物が得物なだけに人の肉の切れたり抉れたり刺さったりなんて感触は手が覚えてしまっていた。その感触は未だに忘れていない。この手からも、身体からも。
薄暗いこの場所には申し訳程度の灯りしか置かれていない。ほんの少しの灯りで見える両の腕には生傷が絶えないでいた。引っ掻き傷、鋭い刃物での切り傷、大小様々な火傷、手首から肘辺りまである裂傷、青や赤の打撲傷、その他諸々。
「よく生きてるもんだ」
はは、と妙にしぶとい自身を嘲った。生きたいのは山々だが、それはこの才を活かす為で、それが出来ないのならあまり意味は無い。今の様な状態では尚更だ。
軍師は策を使って相手を陥れ自軍に勝利をもたらす。殆どの軍師の生き甲斐とも言えるそれを奪われた。
「何故、俺は生かされているのか」
「答えは簡単だ」
突然聞こえた声と突如現れた影にびくりと身体が震える。今宵もまた血の臭いを纏って現れた奴は牢の鍵を開けて中に入ってきた。
今日は、何も持っていないように見える。
「へぇ、答えなんてあったのか」
「…俺は貴方を好いていますから」
「好いた奴にこんな仕打ちをするなんて、悪趣味だね」
「あはは、貴方程ではありませんよ」
初めて見た時、緑色だった服はいつからか青色になっていた。聞けば「曹操殿についていくと決めたから」らしい。実際、赤壁での戦いは奴の助言や郭嘉殿の策で勝てたし、与えられた仕事もきっちりとこなしていた。
そろそろ監視する必要もないか、と試しに目を離した。その試みは失敗に終わり、気付けば俺はここで枷を付けられて捕まっていた。
以来、毎日夜も更けた頃に顔を出して、好き勝手に俺で遊んだあと、早朝に邸宅へ帰っていく。枷は一年経った辺りで消えていた。飯は女官が運んでくるから飢えてはいない。
逃げようとしたことは何度もある。だがその度に奴が現れ、流され、逃げる気力は無くなっていった。もし逃げられたとしても、中途半端では追いつかれてしまう。それでは意味が無い。とすればどうするか。
「徐庶殿」
「賈ク殿、字で呼んで下さい」
「断る、徐庶殿」
「元直」
「…徐庶殿」
「元直」
「……徐庶殿」
「…………」
「…元直殿」
「何でしょう、賈ク殿」
「あんたが得物を持ってないのは珍しいね」
今日はあまり痛い思いをしないで済むかと思うと少し気が楽になる。殴る蹴るよりもやはり切る炙るの方が痛い。
ほ、と一息吐くと心配そうな声と共に左腕に触れる手。微かに震えはじめる自身の腕に力を入れた。
「大丈夫、ですか?」
「…、別に。慣れたもんだよ」
目線だけ動かしてみると、指先で傷痕を撫でる奴の顔は笑っていた。
一緒に働いていたあの時からは想像も出来ない黒い笑み。見てしまった瞬間に背筋が粟立つ。と同時に察してしまった。
「(あぁ、得意のあれが無いだけで何か持ってるのか)」
また何かされる事に気付いた頭が、身体中から感覚を消していく。
「賈ク殿」
聞こえない。
「今日は何をして遊びましょうか」
まだ残る傷痕に触れる
(いつまで続くんだ、この悪夢は)
prev / next