さて、心を決めたなまえだったが肝心の幼馴染みの姿は見つからずその日は自宅へ戻った。せまっくるしい家のなかで弟たちはいつも通りはしゃぎまわっていた。
「うわー!なまえが帰ってきた!」
「見てろ、見てろ!静かにって言いながらげんこつ降らせてくるぞ!」
「狂暴な女だ!弟よ、ヘルメットをかぶれーーーッ!」
「あいよ兄貴!位置へ着けェーーーッ!!」
「……………ん………ただいま」
 なまえは玄関で靴を脱いで両側でうずくまる弟たちの頭をそれぞれの手で撫でてから、疲れた顔のまま部屋の奥へ向かっていった。あっけをとられた弟二人はポカンと口をあけ向き合って「今日のお姉ちゃんは変だ」と呟いた。
「おーお帰り。今日の晩飯は天津飯だ」
 キッチンからのれんを持ち上げて顔を出したのは父親だ。料理中であろう彼の背中にはまだ幼い一番下の妹が背負われていた。
「私いらない…弟たちに分けたげて」
 背中を丸めて目もあわせず寝室へと棒になった足を動かした。
 父親はきょときょとまばたきをして「なまえがご飯いらないだって?あんなに食いしん坊で腹の出ているなまえなのに」と呟いた。和室から腕だけが伸びてクシャクシャに丸めた紙を父親に向かって投げる。それは見事に額へ命中、上空で弧を描いて父の手の中へすとんと収まる。弟が小さく「ナイスキャッ」と親指を立てる。
 その紙を広げてみると数枚の問題用紙であることが分かった。国語、数学、英語。どれも100点だった。父親はさすがだなー!と高らかに笑った。
 いつもならここで得意気に振る舞って弟たちに「君たちも精進したまえ」などと偉ぶるのだが今日はそんな気分ではなかった。

 勉強以外で頭を悩ますことは多分生まれてはじめてだ。貧乏な生活ながらも父からの愛を受けてのびのびと育ち、人間関係も良好だったなまえは感じたことのない心の中の重りに苦しんだ。
 8畳の和室に自分の分の布団を敷き、重くなった体を預けた。
「お風呂は明日…」
 自分は今まで彼に失礼なことを沢山してきた。気持ち悪いと言い放ったり、ことあるごとに前髪に酷いことをしたり。悪意からではなくて、親しさと信頼からくる『からかい行為』であったが、きっと気持ちのよいものではなかっただろう。
 二人の距離が近すぎて彼の気持ちに気づくことができなかった。今までの自分の行動を振り返り、後悔し、枕に顔を埋めた。臆病な過去の自分が憎らしい。少し勇気を出せばまた違う未来があったかもしれない。
「会いたい…」
 細く涙が垂れた。

「なまえ、電話だよ。起きてるか?」
 なまえはもぞもぞとだるそうに上体を起こした。
「誰から?」
「花京院くんからだよ。もう寝てるって言おうか?」
 驚いた。このタイミングで電話だって。今すぐこの気持ちを伝えたい。素早く立ち上がり父親に「かわって」と告げて受話器を受け取った。

「もしもし、変わったよ。典明…?」
「ああ…」
 花京院は疲れているのかかすれた声をしていた。なまえも同じようにかすれていた。
「あの」
「今日はすまなかった」
「え?」
「君があの場所に行ったとき僕もあの場所にいたんだ。眠ってる君を見てた。起きている君には拒絶されてしまったからこれくらいいいかなって。君が目を覚ますのがとても怖かったんだ」
「典明…」
 彼も怖かったという。初めて彼の弱い部分を知った気がした。なまえの中の花京院は、尊敬に値しない人間には徹底して冷たく、親しい相手には気を使い笑顔で接し、なまえにはいつも寛大で何もかもを包み込む優しさを持った大きな人間だった。
「君が目覚めたとき会いたいと呟いていた。あれは…その、もしかして。僕に対してなのか?」
 おそるおそると言葉を紡ぐ彼のようすを想像してなまえは自然と笑みをこぼした。あんなに大きな存在だった彼も、自分と同じように弱い部分もあったのだ。微妙に感じていた距離は透明な壁と同じく元々無いものだったのかもしてない。
「他にっ…誰がいるのよ…」
 涙が溢れた。彼の気持ちをすべて知ることができた気がした。しかしそれには時間がかかりすぎた。彼を傷つけたかもしれないという思いが再び涙になって溢れだす。
「会いたい。会って話がしたい。ずっと、私の気持ちも、典明と同じだった」
 償いにすらならないかもしれない。ただ会って、今までの彼の思いにこたえられるだけの自分の気持ちを直接伝えたかった。
「…ありがとう」
 彼の言葉は震えていた。そのまま静かに「あの場所で待ってる」と言うと電話が切られた。
 受話器を置き、涙をぬぐう。ふと後ろを見ると心配そうな弟二人。
「お姉ちゃん、悲しいことでもあった?」
「今日帰ってきたときも元気なかった」
 なまえは二人の頭を優しく撫でた。良くできた子供たちだ。「ありがとう、もう大丈夫」と微笑むと弟たちも安心したのか、早速新聞紙で作った剣で「妖怪鬼ババだー!」といって絡んできた。それぞれの手で剣をへし折って姉の威厳を見せつけた。
「お父さん、ちょっと私忘れ物したから学校行ってくるね」
「こんな時間に?」
 父は不思議そうな顔をしていたが数秒なまえの顔を見つめ、なにかを納得したように告げた。
「きっと大きな忘れ物だね?残らず持って帰ってきなさい」
「…うん!」
「門は閉まっているだろうし警備員さんに見つかるなよ!あと、夜道は気を付けてな。お前なら男の一人や二人潰せるだろうがな」
 いたずらっぽい顔をした父に「うるさいよ」と返して一息つく。
「行ってきます」
「帰ったら天津飯があるからな」
 父親はなまえの背中を押した。


 その場所へ赴くと前と同じところ、階段の一番上に彼がたっていた。しんと静まり返った校舎内で二人は向き合う。静寂をなまえの一言が破った。
「私も典明のことずっと好きでした」
 押し込めていた気持ちと一緒に涙と言葉が次々とこぼれ落ちた。
「ずっと、ずっと、壁を作ってた。そんなはずがないって思ってたの。だって私、あなたに悪いことたくさんしてきたから…典明は私に良くしてくれていたのにっ、私…」
「なまえ」
 花京院がなまえの手を取った。
「僕も悪かったんだ。どう君に接して良いか分からなくて、微妙な距離を感じさせてしまっていたと思う」
 花京院は顔を伏せてゴメンねと言った。
「いいの、いいの。典明、ありがとう」
 なまえはふらりと彼の胸に頭を預けた。感謝の気持ちを身体中で伝えたかった。彼の腕が腰にまわされ、もう一方の腕が頭を固定した。
 視線を上へ向けて二人は思いを確かめあった。そこには距離も壁もなかった。


 季節は初夏。まだまだ蒸し暑い。真っ黒の空に浮かんだ月はやけに明るく抱き合ってひとつになった二人の影を照らし出していた。蒸し暑いというのに、その影が離れることは無かった。


******************

 季節は春。梅の花はすっかり散ってしまい桜の花が咲き始めている。
 花京院となまえは受験を乗り越えて新しい学校生活への期待に胸を膨らましていた。二人は同じ高校へ進学予定だ。
 春休みも残り一週間。美しいプリーツの入った新品の高等部の制服を受け取り、入学前課題もすべて終わらせた二人は花京院宅の客間で語り合っていた。
「へぇ、エジプト旅行?なんでまたそんな微妙な所に?」
「近場はもう全部行ってしまったからね、珍しいところに行こうって親がね」
「ピラミッドとか見に行くの?お土産と写真と蘊蓄楽しみにしてるね」
「おい、土産話と言え。なんだ?蘊蓄って」
 笑いながらじゃれあう。こうやって冗談を言うのは以前から同じだが、二人の距離はぐんと近くなった。
 ぱちりと目線があう。鼻先と鼻先の距離はとても近かった。
「好きだよ、なまえ」
「私も典明のこと好き」
 目を閉じると唇に彼の唇が触れた。ふわりとジャスミンの香り。

 ずっとこの関係が続けばいいなとなまえは思った。
 しかし、この後彼が帰ってくることは無かった。


終 

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