それは多分、熱烈な感情ではなかった。いつからあったともしれない、穏やかなぬくみのようなそれが恋情だと気づいたのは、どれくらい前だったか。
 あるいは、仕事に追われていた昼下がり、和菓子の差し入れに来た時。あるいは、ふとしたことからはじまった閻魔大王の愚痴話で盛り上がった時。あるいは、机につっぷして寝ているのを見かけた時。あるいは、あるいは。頭の中で記憶をさらっていっても、答えは出ない。
 あるいは、はじめから。そんな可能性が一瞬浮かんで、消えた。


 「鬼灯様、よろしいですか」
入り口から顔を覗かせる鬼女、透子。閻魔大王第一補佐官付補佐官、というなんともややこしい官職をもっている一本角の彼女は、てっとりばやくいえば私の補佐官である。そして、この穏やかな恋情の対象。
「ああ、透子さん。どうぞ」
許可をとって入ってくる彼女は当然、私のあたためている感情に気づかない。否、気づかせない。
 これ、と差し出してくる書類の束を受け取る。ざっと確認してOKを出すと、透子さんはほっとしたように笑った。
「鬼灯様、休憩なさってはいかがですか?それともなにか飲み物を持ってきましょうか」
そろそろ昼休みですし、と付け加えられて時計を確認すると、たしかにそんな時間だ。
「そうですね。では、これだけ印鑑押してしまいますので」
 待っていてください、とみなまで言わずに透子さんは察して、柱に背をもたれた。そういえば、こういう察しの良いところや、仕事の速さを買われて彼女が私の補佐官に選ばれたのだったなと、ぼんやり思い出す。さっさと印鑑を押して書類をまとめると、透子さんは急かすようにして私を休憩に連れだした。
 昼食を終えて中庭を通りがかったところで、透子さんがちょいちょいと袖をひいた。何事かと思って
振り向くと、透子さんは遠慮がちに言う。
「ちょっと金魚草見ていってもいいですか、ほんのちょっとでいいですから」
別に用事があるわけでもないのに、そんなに断る必要があるのかと思いながら、もちろん、と答えると透子さんはぱっと笑顔になった。中庭におりて、彼女は自分の身長と同じ程の金魚草の前に立つ。
 何をする気かと興味をひかれて、少し後ろで眺めていたが、特になにかする様子もない。ただじっと観察しているだけのようだ。
時間にして数分、透子さんは沈黙したまま金魚を凝視してから戻ってきた。
「お時間取らせてすみません、本当は一人で適当に時間を見つけて来たかったんですけど、…一人だと、金魚草が突然なきだすのがどうも怖くて…普通にしてる時は可愛いと思うのですけど…」
もごもごと口ごもりながらそんなふうに言い訳をする、若干うつむいた一本角を見て、胸の奥がじわりと暖かくなった。
 …だからこれは、熱烈な感情ではないのだ。
「鬼灯様は、どなたかとお付き合いされないんですか?」
突然そんなことを訊かれて面食らう。ちらりと透子さんの顔をうかがうと、彼女は興味津々といったふうな感じで私の顔を仰いでいた。
「…相手がいませんから」
簡潔に答えると、透子さんはええ、とわりかし落ち着いた声音で、驚いたふうな相槌をうった。
「鬼灯様、女性獄卒の間では本当に人気ですよ。告白されたりしないんですか?」
心当たりがないことはなかったので、曖昧に返事をするとしかし透子さんは一人で納得した。
「そっか…鬼灯様の威圧感に負けちゃうんだ皆…」
ひどい言いようではあるが、目つきがよろしくないのは確かなので黙っておく。
「じゃあ鬼灯様って好きな人、いないんですか?」
「はい?」
驚いた。今までプライベートなところまで踏み込んできたことは、数えるほどしかない。その上いつもは必要に迫られて、であるから、こんなどうでもいいとも言える質問をされるのは初めてだ。
 …私の気も知らずに。
「ああっ別にいいですすみません、気にしないでください!」
別に機嫌を悪くしたわけではないが、表情が硬くなったのを透子さんはそう解釈したらしく、慌てて謝ってきた。…なら。
「透子さんはどうなんです?好きな人、いるんですか」
逆に訊き返す。さあ、どう答えるのか。今まで近くで関わってきて、この優秀な補佐官が誰かと特に仲が良さそうな様子は見たことがないが、本人に訊いたことはもちろんなかった。
「…えっと」
透子さんはこの質問を予測していなかったのか、一瞬硬直して、困った顔をしたあと少し寂しげな表情になってうつむいてしまった。その反応から読み取れる答えはもう分かっている。
「います、けど……すごい片思いなんです。私、多分その人からは仕事相手以上の何者とも思われていませんので」
 そうですか、と無難な相槌を、勝手に口が吐き出していた。そうか、いるのだ。透子さんには、好きな人がいたのだ。そして多分それは、私ではない。赤面することもなくだされた答えに自分をあてはめられるほど、私の脳は楽観的に出来てはいなかった。
いつまでもこの穏やかな感情を温めて、行動にうつさなかったのは、それが怖かったからだ。透子さんを困らせるのが嫌だった。…いや、それは違う。そんなのは建前で、本当は自分が傷つくのが怖かったから、行動に移せなかっただけだ。なんとなく寒々しい気持ちのまま透子さんと別れた。とりあえず、しばらく一人で頭を冷やしたかった。



 「こんにちは」
扉をあけると、白澤様はカウンターに腰掛けて桃太郎君と話していたようだった。
「あ、透子ちゃんいらっしゃい。どうしたの」
にこ、と人好きのする笑みを浮かべ、白澤様はカウンターから降りる。
「冷え性のお薬ください。前にいただいたのすごく効いたので…あれまだ残ってます?」
店に入ると桃太郎君が椅子をひいてくれた。彼は本当によく出来た子だと思う。ついでに今日スケッチしてきた金魚の絵を渡すと、心底助かったようにお礼を言われた。曰く、神獣の描く絵は象形文字レベルで、何がなんだかわからないのだそうだ。桃太郎君はそのまま奥の部屋に下がっていった。
白澤様が思い出したように言う。
「ああ、あれね。ゴメン、ちょうどきらしちゃってるんだけど、今時間ある?」
ええ、と頷くと、今から作るねとわざわざ作業の準備をしてくれた。
薬剤師見習いのうさぎをなでると、気持ち良さそうにすりよってくる。猫なら喉元だけど、はたしてうさぎってどこをなでられるのがいいんだろうか。
「女の子は冷え症の子が多いよね」
白澤様がそう言ったので、ああ、と思い出す。
「お香ちゃんもそうなんですよね。私、ここのことはお香ちゃんに教えてもらったんです」
言うと、白澤様はそうそうと頷いた。ほんとは人肌であたためるのがいいんだよ、と冗談なのか本気なのか分からないようなことを言うので流す。
「それで、朴念仁の想い人は最近どうなの?」
 前に彼に言い寄られた時に、好きな人がいる、と断ってから、白澤様はちょくちょくその話をふってくるようになった。多分、私がふられた時に速攻でしかけてくるためで、そして多分、私が一度も名指ししたことのない想い人が誰だか、彼は知っている。白澤様が気づいていることを隠しているのを、私が気づいているのを、白澤様もまた気づいている。お互いにそしらぬふりをしているだけだ。
「ちょっとカマかけてみたんですけどね、逆に訊き返されて困りましたよ。突然不機嫌になるし、なんかもう、脈なしかなって思ってみたり」
あはは、と笑うと白澤様は顔をしかめた。今日はこんな反応ばかりされる。さっきの鬼灯様とそっくりの反応。かなりの勇気を要した質問だったが、逆にかえされて、赤面しそうになるのをこらえるのに必死だった。
「透子ちゃんさ、そいつのどこが好きなの?」
はあ、と曖昧に返事をすると、白澤様は露骨に嫌そうな顔をしてなにか中国語でつぶやいた。日本語でおねがいします、というと何でもない、と断られる。
 …白澤からすれば、理解できないのだ。お互い好き合っているのに、なまじ器用で優秀なせいで、お互いに何もきっかけを作らない。そのまま自然消滅してしまえと思うことはあったが、それで透子が幸せをのがしてしまうという結末は、どこか違うような気がしていたのだ。
 「どこが好きかって訊かれると、ちょっとわからないです。いつのまにか好きになってたので、いったいいつから好きだったのかもわからなくて」
 私がいつのまにか抱いていた感情は、多分、熱烈なものではなかった。やさしいぬくもりのような、やわらかな気持ち。これが恋だと気付いたのは、いつだったか。
白澤様が、うん、と聞いてくれているのを感じて、カウンターに頭を伏せた。悲しいんだかなんだかわからなくて、どうしようもなく混乱していた。
「でも、いいんです。諦めるとか諦めないとかじゃなくて、これは私がもっているだけの気持ちだから。いつか勝手に消えてくれるまで、待つんです。私が好きなだけですから」
自分の気持ちの整理をつけようと、乱雑な思いを言葉にしていただけだった。脈なしだと報告した時点で、いつものような誘う言葉が出てこなかったのに驚きはしたが、白澤様が何も言わないのに甘えた。自分のことで手一杯で、周りに注意が向いていなかった。だから、白澤様が足音に気付いて顔をあげるのも、見ていなかった。扉の開く音。
 「鬼灯…」
 白澤様が、これまでに見たどんな表情とも似つかない顔で、聞いたことのない声音で、つぶやいた。…なんて、こと。振り向くと扉を開けたのはたしかに見まごうことなく鬼灯様だ。聞かれた、と呆然としていると、鬼灯様は全くの無表情のままでつぶやいた。白澤さんでしたか、と。
 理解できずに聞き返そうとした私より早く、白澤様が違う、と言った。違う、僕じゃなくてお前だ。この子の言ってるのは、お前のことなんだ。
目の前の神獣が何を言っているのか、そして鬼神が何を思って何を言ったのか理解してしまって、消えたくなった。つまり扉を開けた鬼灯様が聞いたのは、一番最後の一言だけで、その言葉は私の好意が白澤様に向いているのか、ということなのだろう。…やめてください。こんなみじめな気持ちになったのははじめて。だから、唐突にバリトンが言った台詞を理解するのに、10秒も空白が必要だった。
「私もですよ」
 その一言を理解するのに、脳がかつてない運動量を必要とした。いま、なんて。
「ですから、私も透子さんが好きですよと言ったんです」
 思考をやめた脳に、それだけが沁み入ってきた。つまり、それは。
「差し支えなければ、私と付き合いませんか」
目線をあわせてすこし屈んだ鬼灯様にそう言われて、一も二もなくうなずいた。あまりにあっけない出来事で、でもこれ以外に無かった、という確信のようなものを抱いた。
…だから、これは熱烈な恋ではないのだ。
鬼灯様がかすかに微笑んだ。夢見心地からようやく醒めて、急に恥ずかしくなる。声なき叫びをあげてカウンターにつっぷした私の頭上で、犬猿の仲の二人がなにかやかましく言い合っている。合間合間に、透子さん耳真っ赤です、とか、僕完全に損な役回りじゃん、とか、今だけ白豚さんに感謝します、とか、気持ち悪いなとか。それで不穏な音がしたり。おそるおそる顔を上げると、予想どおり顔面に金棒を叩きこまれた哀れな神獣様が見えて、思わず笑ってしまった。
「帰りましょう、透子さん」
 いつもどおりの無表情に戻った鬼灯様が、いつもと違って手を差し出した。その小さな違いが嬉しくて、ちょっとにやけながらありがたく手を拝借する。物音を聞いて慌てて出てきた桃太郎君が、つながれた私の手を見て呆気にとられている。ごめん桃太郎君今度説明するから、と心の中で謝って、鬼灯様に引っ張られるまま極楽満月から出た。
「改めまして、よろしくお願いします」
「こちらこそ不束者ですが、よろしくお願いいたします」
挨拶をかわすと、鬼灯様がふ、と笑った。あなたが優秀で気の回る人だというのはよく知っています、なんて言うものだから本当にくすぐったくなった。
「さっきは本当にあいつのことかと思いましたよ、透子さんの片思い相手。あいつとは仕事上の関わりも一応ありますし、…よく考えればあいつから“それ以上の何者とも思われていない”と考えるのはおかしいと気付いたかもしれませんが」
なにしろ動揺していたものですから。小声で付け加えられた言葉に、でも、と思う。
「鬼灯様、いままで全然そんなそぶり見せてくださらなかったから、今日のあれで完全に脈なしかなって思いましたよ、こちらこそ」
ほんの少し睨むようにして見上げると、つないでいないほうの手で軽く額をはじかれた。
「それはまあ、私も優秀ですから、あなたと同じで」
いけしゃあしゃあと。私は優秀じゃありません、とことわって、そこでやっと冷え性の薬をもらいそびれたことを思い出す。白澤様には悪いことをしたな、と思いながら、でも今はこの幸せに浸っていたい。
 ゆっくりとした足取りで帰路につく私達の間を、一匹のうさぎが駆けていった。



戻る

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -