濡れていなかった浅葱のはかまで適当に髪をぬぐって、元の洋服に着替えた。片付けに来るだろう女中さんに罪はないので、ぬいだものはきれいに畳んでおく。
「さ、行きましょう。道順は覚えてます?」
普段通りの口調で、二人をうながす。鬼灯さんが頷いた。
「まっすぐ行って、右に二回曲がりましたね。…私が先にいきます。白澤さん、あなたは透子さんの後ろを」
「はいよ」
普段なら、鬼灯さんの言うことに白澤さんが素直に頷くなんてことはないだろうな、と思って、それだけ二人が異常事態だと確認しているのだ、と思い当たり、ちょっとため息が出そうになった。
 大股で歩く鬼灯さんの後を小走りで追う。いつもなら合わせてくれる歩調も、今は白澤さんに後ろから手をそえられてやっとおいすがっているぐらいだ。最初の角を曲がったところで、急に鬼灯さんが立ち止まった。その背中に衝突しかけて、あやういところで白澤さんに引き戻される。そっと鬼神のよこから覗くと、小さな男の子が俯いて立っていた。わずかにだが、霊気。
「……こ、……」
何か言っているようだが、聞き取れない。と、突然霊気が大きくなった。鬼灯さんが身構える。
「ひる子、覚悟!」
男の子は片手を突き出し、その手に握られた札から光るものが飛んだ。
「……だめ!」
それをかわして反撃、というか暴力行為に出ようとする鬼灯さんをかろうじて抱きとめ、彼の前へ出る。男の子はなおもしつこく、私からしたら笑ってしまうくらいの威力の衝撃波をはなとうとするので、私は呪い返しの護符を一枚身体の前に浮かせた。
 青白い光となった衝撃波は私の護符で跳ね返り、男の子がそれをもろにあびてひっくり返った。
「動かないで下さい」
鈍い殺気をはなっている後ろの人外二人にそう釘をさし、私は護符を手にしたまま男の子の前にひざまずいた。
「君、何の真似?相手の力量も確かめずに未熟な技をかければ、死ぬことにもなりかねないのだけど。陰陽師の心得、習わなかったの?」
男の子は涙目になりながら立ち上がった。立ち上がっても、ひざまずいた私と目線が合う。小さな男の子だ。
「しらねえよ、そんなの!おまえは、汚らわしいやつだから、何をしたっていいんだろ!おれのお母さんも、お前が殺したんだ!ひる子なんか、しんじまえばいいんだ!」
…穏やかではない。
「……君、何の話をしているの?君のお母さんを、私がどうしたって?」
男の子はぼろぼろ泣きだしながらも、きちんとした口調で続けた。律儀に、続けてくれた。
「ひる子が、お母さんを呪い殺したんだろ!おまえは悪いやつだから、おまえが追放されたのは正しいのに、おまえがかってにうらんで、おれのお母さんをころしたんだ!」
 ああ、そういう話になっているのか。
 正しいふうには伝えられていないだろうと思っていただ、そういうことになっていたのか。それに、人を呪い殺すとか。
 私は、男の子の肩に手を置いて、なるべく優しげに聞こえるようにゆっくりと話した。
「まず、君はひとつ大きな勘違いをしてる。…あのね、関東にいる人間が、京都にいる君のお母さんを、呪い殺せるはずがない。安倍晴明じゃあるまいし、私が割と並外れた霊力の持ち主だっていうのはあるけど、さすがにそれはね。…それに、私は君のお母さんを知らない」
「うそつけ!!知ってるはずだ!だって、お母さんは、おまえの教育係だったんだぞ!おまえが、おれのお母さんが正しいことをいうのがきにくわなくて、関東にいってからのろいころしたんだ!」
 ぎらぎらと燃える目で私を睨む男の子。私はため息をついた。そして、立ち上がった。それだけで男の子は一瞬びくっと肩を震わせた。相当ビビっているらしい。
「ねえ、君さ、もしかして、私の名前が蛭子っていうんだと思ってるの?」
男の子は、怪訝そうな顔をした。
「ちがうの?」
 私はよりいっそう大きなため息をついた。
「うん、違うね。まあこの屋敷の人はみんな私を蛭子って呼ぶから、君が勘違いするのもしかたないけど…私はね、透子っていう、ちゃんとした名前があるんだ」
「…透子?」
「そう。……じゃあ、蛭子ってなんだか知ってる?君」
ゆっくりと首を横にふる男の子。私は、ざっくりと説明をした。
「蛭子っていうのはね、日本神話で、伊弉諾(いざなぎ)と伊弉冉(いざなみ)の間に生まれた一番初めの子供のことだよ。3歳になっても足がたたないから、こりゃ出来損ないだってことで舟に乗せて海に流されちゃったのね。それがどんどん悪い意味にとられて、忌み子みたいな意味になってるけど。…まあ、蛭子蛭子って呼んでるのは、忌み子忌み子って言ってるのとおんなじだよ」
まあ、蛭子は恵比寿のことでもあるのだけど、それは言わないでおく。ぽかん、と立っている男の子に、私はさらに続けた。
「それでね、君のお母さんのことだけど。私には小さい頃、たしかに教育係がついてたみたいだけど、私は父に毛嫌いされてたから、誰も私によりつかなかった。教育係の人は私に一度も関わってこなかったから、残念だけど私は、君のお母さんのことは知らないよ。私を教育してくれたのは、もっぱら私の祖父なんだよ。それに、追放って聞いてるみたいだけど、本当のところは隠居した祖父が、私を引き取ってくれたんだ。父にも蛭子呼ばわりされるんじゃ、私がまっとうな人生歩めないと思って、代わりに私を育ててくれたの……ってちょっと、どうしたの?」
 えぐえぐと泣きだしてしまった男の子。待て、ほんとどうした。私が悪いのか?慌てていると、男の子はしゃくりあげながら口を開いた。
「ご、ごめん、なさい」
涙をぬぐいながら、男の子が私を見上げる。
「透子さん、ごめんなさい。ぼ、僕、知らなくて、そんなひどいこと言ってたなんて、しらなくて」
あらら、この子、めちゃくちゃいい子じゃん?しかも今の話で泣いてくれるあたり、人に感情移入するのも激しいうえに、多分、ものすごく優しい。だからこそ、母親を呪った蛭子を殺そうとしたのだろう。
 大丈夫だから、と声をかけようとしたところで、今の今まで黙っていた後ろの二人が明らかな殺意をわきあがらせた。今度はどうした、とんかば呆れながら振り向く前に、鬼灯さんの声。
「…透子さん、困ったことになりました」
…いや、ほんとに今度は何事だよ。



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