どちらかのお腹がギュルルルとなった。女は男の顔を見ながら「お腹、減ったの」と聞く。少し呆気にとられた声であったのは、男が人前で腹の音を鳴らすことは滅多にないからだ。男は、少し考えたあと、筆を置き立ち上がる。腰は重たそうだった。
「流石に、四日もまともな飯を食わんのは身体がもたないらしい」
「もういい加減、徹夜するのはやめたら」
「俺がやらんで誰がやる」
名前は文次郎にそう言われると、それ以上は返せない。文次郎は委員長であり、一番仕事ができる。人より二倍三倍と、仕事をこなすのは彼の性でもあり仕事の多さからなる仕方のないことでもあった。
 名前は文次郎の後につきながら長い廊下をぺたぺたと歩く。黒の足袋が廊下にこすれ、止まり、ついたのは誰もいない食堂だった。夜の九時半なのだから、ほかの者は自室にいるらしい。
「おばちゃんもいないでしょ。ご飯、どうするの」
「こうなるだろうと思って、白米を残してもらっておいた。おばちゃんのことだ。味噌汁もあるだろう」
「用意がよすぎる。予想できたなら、先に食べるべきよ」
「忙しかったんだ」
文次郎は弁解するわけでもなく早口にそういって食堂の奥に入っていった。文次郎の言うとおり、味噌汁も作り置いてあったようで仄かに暖かい香りがする。名前は横でそれを見ていながら隈がまた濃くなった文次郎が目に入り溜息をついた。どうして文次郎はああも要領よく事を運ばないのだろう…と。同じ学友であり同室の仙蔵は今頃、すこやかに寝息をたてているだろう。文次郎は真っ直ぐすぎであり、体当たり過ぎるのだ。それが彼の、魅力だとしても。時にイラつきすら覚える彼の魅力に、名前は心を痛める。
「溜息か、珍しい」
「わたしだって、溜息はつくの」
「ほう」
さも当たり前のように出てきた自分の分のおにぎりを見て、名前の心はまたチクリと鳴った。優しい、優しすぎる。頼んでもいない、ましてや今の名前はただの不法侵入者でもある。それなのに咎めることなく、当たり前のようにおにぎりを出す文次郎にやはり、苛立ちを覚えた。文次郎は誰にでもこんなことをするような人なのだ。いや、彼に構う女など自分以外いないとしても。
「食べないのか」
「…食べる」
「どうした。浮かない顔してる」
「いつまで、こうして文次郎とおにぎりを一緒に食べていられるか考えていたのよ」
六年生となった今、いずれは卒業の時がくる。くのいちの殆どはどこかに嫁ぐ為か、名前は数少ないくのいちだ。それ故どこかしらに重宝され、お城勤めとなるだろう。文次郎も同じく、優秀だからどこかへ勤めることになる。卒業してからの忍同士の出会いというものにあまりいい者はない。願わくば出会わないことだけを祈るのだ。
名前がそんなことを考えていることも知らず、文次郎は味噌汁を口に運びながら早口に「卒業までだろう」と言う。

△▼

 数年が経った。アノ頃より短くなった髪を触りながら、名前は燃える城で考える。今、柱を挟み後ろにいるのは間違いなく文次郎だった。
文次郎の背丈は、アノ頃とさほど変わらない。一瞬見た顔では、もう隈がまるで顔の一部となったようにこびりついている。若かりし学生時代ですら大人びた印象だったからかさほど変わりがないにしろ、やはりもう十代の面影は消えていた。
 よくある城主同士でのいざこざ。形成は名前の勤める城が、若干押されていた。それも文次郎の所為だろう。先方の伝言で忍に何人もやられたと聞く。
 振り返れば名前の人生は良かったものだった。両親にも恵まれ、丈夫な身体と美しい髪をもった。好きな人だってできた。頼もしい仲間もできた。城に勤めてからは、やりたくない仕事もたくさんあったし、どちらかといえば前向きなことなど1つもなかった。だが、今は違う。真後ろに文次郎がいるのだ。学生時代に、何度も同じ任務についた文次郎が。
 文次郎はまだ彼女の存在に気づかない。名前はそれがどういう意味かを理解しながら、静かに息をついた。頬から伝う汗で思い出すのは、あの時の味気のないおにぎりの味、文次郎の仕草。
 黒い足袋が、燃える廊下を一気に駆け出した。


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