派遣された翌日に敵襲に遭うとはついてない。
 それも敵はこのモジュールを確実に落としたかったらしく、こちらの常駐軍が浮き足立つ程度に戦力を増強して攻め込んで来た。物量戦はARUS軍の得意とするところ。いくらドルシアが量より質するを重視とはいえど、十倍近い戦力差をたった二人特務機関の人間を加えるだけでひっくり返すのは不可能に近い。
 その結果、一晩を待たずしてモジュールは攻め落とされ、爆砕された建物の欠片や炎の気配に混じって、そこここに血まみれになった白い軍服が転がっている有様だった。事切れて動かなくなった仲間の屍を乗り越えて、ゆっくり、ゆっくりと這いずるように進む影が二つ。
 片方は足を負傷した片割れの肩を支え、担ぐように歩く。その後をぽたりぽたりと血の跡が滴り、死出の路を赤く彩っていた。

「……援軍到着地点の占拠、駐留一個中隊の壊滅、緊急用脱出ポッドの定員……手際のいい進軍、裏切り者の存在。導き出される結論、は、二人で助かる道は、存在……しない」
 誰にも聞かせるつもりのない、諦めと毒の混じった言葉の欠片が血溜まりと共にぽつりぽつりと滴った。そうして、銀髪の少年は顔を上げる。軍人とは思えない凛然とした美しい横顔にはべったりとした血と、汚れ。
「……名前、行け」
「はぁ?」
 背負われている片割れの少年の呟きに、少女は苛立たしげに反駁した。彼女も少年に負けないほど全身が薄汚れている。こんな戦場でなければ、学舎で本を読み合っていそうな、そんな二人の腰には物々しい大きな銃が下げられていた。
 何言ってんの、と少女は刺々しい口調で突き刺すように告げる。
「俺を引きずっていては逃げるタイミングを逸してしまう。このモジュールはもう終わりだ」
 左足に力が入らない。大口径の中から放たれた弾丸がエルエルフの向こう脛を貫いたのだ。出血は無理矢理止めたものの、凍りついたように震えが止まらず、痛みさえも感じなくなってきた。走るどころか、歩けない。
 このままでは二人とも見つかって、嬲り殺されてしまう。エルエルフの頭脳も、その結論に容易に辿り着く。捕虜として丁重に扱われるだなんて希望的観測は、微塵も出来ない。それに殺されるならまだしも、名前は女だ。死んだ方がましだという目に遭わされるかもしれない。
「敵に見つかる前に、俺を置いて」
 エルエルフにとって、名前は仲間。共に同じ夢を抱いた同志。
 助かる道があるのなら、躊躇わずそちらへ走って行って欲しかった。足手纏いになりたくはない。しかし名前はエルエルフの心など知らないように、エルエルフの体を殊更強く抱き寄せた。
「嫌でーす」
 とぼけるような声色。被せるようにして、窓の向こう側で立体橋が大きく爆発して、振動が床から伝わってきた。
「名前!」
 そう叫んだ瞬間、エルエルフの体に激痛が走った。負傷しているのは足だけじゃない。幾つか被弾しているようで、身体のあちこちがじくじくと痛む。苦痛に顔をしかめたエルエルフを見遣り、名前は瞼を少し伏せた。
「ちょっとでも悪いって思ってるのなら、その口閉じて、体力回復に集中、しなさいよね」
「……この傷では本拠地まで保たない。だから言ってるんだ」
 出血量は多く、骨も恐らく折れている。こんな状態でこのモジュールの圏内から抜け出すなど不可能だ。負傷者を省みた挙げ句に二人ともここで死ぬよりも、名前だけでも。
「あー、血止まんないのかな。そのせいでお得意の計算が狂ってんのね」
 そう言ってから名前はエルエルフを廊下の隅に下ろした。そうだ、それでいい。エルエルフがふっと息をついた瞬間、名前はナイフでエルエルフの軍服を引き裂いた。呆気にとられて声も出せないうちに、携帯救急キットで手早く止血をされる。貫通した左足もぎゅうぎゅうに力を込めて包帯を巻き付けられた。魔法のように処置が終わったと思うと、ついでと言わんばかりに痛み止めの錠剤を口にねじ込まれた。
「大丈夫、助かるよ」
 にぃ、と笑うその表情は、ドルシア本国で見た笑みと同じだった。イクスアインやハーノイン、アードライと賭けポーカーをして、勝利を確信したときと全く同じ、自信に溢れて輝いた笑顔。
 こんな危機的状況で、どうしてそんな明るく振る舞っていられる。冷静さを欠いているのは自分も同じなのに。どうしようもなく、腹立たしかった。どうにも出来ない自分の弱さも、自分を置いていかない名前の強さも。何もかも。
「馬鹿な事を!」
「馬鹿はどっちだよ……私だって怪我してるんだから、あんまり暴れないでくれる?」
 再び掴み上げようとする名前の手を振り払う。しかし、力が入らない。弱々しいエルエルフの手を引っぱり上げて再び歩き出した名前は、小さな声で「麻酔性分入り鎮痛剤なんだよねぇ」と零した。武力で劣る代わりに小細工を弄する彼女らしい、策だ。
 読めなかった自分に、じりじりと焼けるように苛立つ。
「……こんな所で、死んでられないんでしょ」
「それはお前も同じだろう」
「そうだよ。だからこんだけ苦労してるんじゃない……」

 ずるずると引きずられるがままに脱出ポッド置き場についてしまった。
 IDカードとセキュリティでほぼ隔離されている場所には、誰かが先んじた気配がない。白く冷たい床のまま。それを初めて汚すのは二人の血。
 長い試験管のようなポッドが鎮座している。
 人一人の身長よりも一回り大きい程度。細いそれは緊急用であり、しかも要人護送用であるために一つしか設置されていない。敵に見つからないように隠されたそれは、ARUSやジオールのレーダーをジャミングし、かつドルシア軍に対してだけ有効な暗号回線を介した通信も出来る機体だ。
 この絶体絶命な状況から脱出するには、これ以上最適な道具はない。名前はエルエルフをポッド脇にもたれかけさせ、作動確認の操作に入った。
「大丈夫、間に合うよ。止血もしたしね」
「……敵が来る。その前に早く」
 小さな電子音。チェックボックスに緑色の灯りが灯る度に、エルエルフの苦汁と焦りは濃くなっていく。だが、動けない。今すぐに彼女をがんじがらめにしてポッドに押し込めてしまいたいのに、左足の弾痕と全身の傷がそれを許さない。その上から縛り付ける、名前の薬の鎖。
「大丈夫だって。結局、白兵近接戦闘訓練では君には敵わなかったけど、アードライよりは、ね」
 一体何を言っているのかわからなかった。噛み合ない会話。固く封じ込められた名前の意志。今まで、彼女の考えが読めなかった事なんてなかったのに。
 システムオールグリーン。自動操縦モードにして、救出用座標も打ち込まれた。準備完了、と名前はポッドのハッチを開けて、エルエルフの体を担ぎ上げた。
「……ほら、乗った乗った」
 中の座席は一つきり。エルエルフがシートに寝そべればそれだけでスペースは一杯になってしまう程度には、狭い。必死になって押し込められるのに抵抗するが、薬の回った体では名前一人の力すら押さえられない。
 広く開かれたハッチから転げ落ちるように中に放り込まれ、嫌が応にも固いシートに受け止められる。全身に引きつれる痛みが走った。いや、構うまい。身を起こして、叫ぶ。
「名前! これは一人乗りだが、お前も」
 変わらない笑顔を浮かべた名前。しかし、その目に宿るのは遠い憧憬。優しい光。
 そこで、悟ってしまった。名前の考えている事を。二人で乗るには酸素が足りない。ポッドは一つだけ。すぐ上のフロアに大勢の人間の足音。ARUS軍はすぐ傍まで迫っている。改めて残ったポッドを探している暇はない。
 探すつもりも、恐らくは、無い。
「…………まさか」
 ぞっとエルエルフの顔から血の気が引いた。
 名前は目を逸らし、作業していたコンソールを振り仰いだ。表示されているゲージがマックスになるまで、あと数秒。
「脱出ポッドのくせに起動に時間かかるなぁ。エルエルフ、固定ベルト付けて。酸素は一人なら十分足りる」
 そう言い残し、名前は背を向けた。
 背の右下、腰の辺り、赤黒く染みた大きな傷跡。白い軍服をほとんど様変わりさせてしまった、鉄錆びた血の臭い。もしかしたら自分よりも出血量が多いかもしれない。どこかで弾を受けたのだろう、しかし一切の苦痛も滲ませず、脱出ポッドまで自分を運んでくれた。
 どうして、そこまで。
 訓練所ではずっと、お前が死んでも容赦なく置いていく、と言い合っていたのに。足手纏いは死んでいけ、と喧嘩さえしたのに。
 ここで離してたまるか。自分だけ助かって名前を置いていくなんて、出来ない。それなのに。こんな所で。こんな所で彼女を失いたくなかった。
「名前!」
 泣き叫ぶように名を呼んで、手を伸ばす。
 指が血で汚れた軍服に届く寸前、名前の小さな手のひらに受け止められた。そしてそのまま掴まれ、引き寄せられ。近づいたと思ったら、唇に血の味が広がった。包み込むような優しい感触に、思わず目を見開く。
「んっ……」
 細い腕に頭を抱きしめられた。指先がエルエルフの髪を掻き分けて、撫でる。
 気丈に振る舞っていた名前が垣間見せた、弱さ。彼女の腕は縋り付くように強く力が込められて、けれど微かに震えていた。エルエルフが手を伸ばし、名前の背に回そうとした時、ふっと体が離された。ちゃりんと微かな金属音。首に回っていたのは、彼女が常に身に付けていた小さな盾を模したペンダント。どうして、今、これを。
 問い詰めようと口を開いたエルエルフを手のひらで遮り、しっと息を鳴らす。彼女の表情が一瞬にして、敵を前にした刃の鋭さを取り戻した。
「来た」
 軍人の顔に戻った名前。手首に仕込んでいた折りたたみナイフと弾切れ寸前の銃を両手で構え、ふぅ、と息をつく。そして呆然としたエルエルフの額を、ナイフの石突でこつんと叩いた。
「馬鹿、ここはもう敵地なのに。素の顔見せてんじゃないの」
 にっと歯を見せて笑ってみせたその目に、涙の気配はない。錯覚だったのだろうか。口付けられた時、頬を伝った冷たい感触ははたしてどちらのものなのか。麻酔が回ってくらくらとするエルエルフの頭では判断出来なかった。
「ドルシアの残党が下に行ったぞ!」
「逃すな、捕まえろ!」
 怒号と足音が近づいてくる。
 迫り来る破滅と死の予感。どれだけの数が来ようと何も恐ろしくなかったはずなのに、彼らが名前を奪うのだと思うと、煮えたぎるような殺意に溺れそうだ。歯を食いしばると、頭蓋の奥でぎちりと軋む。
 裏切り者を見極められなかった自分自身。戦力差を覆す策を編めなかった自分自身。
 全てを託して死に急ぐ、名前。
 誰を、何を憎めば、この黒い炎はおさまるのだろう。
 目眩がする。耳鳴りが痛い。
「……さよなら」
 彼女の囁く声が、遠い。
「生きて、ね。最後まで!」
 力任せに突き飛ばされて、ポッドに沈む。
 最期に儚く微笑んだ彼女の姿と、甘く溶けるような声。
 それだけ残して、ハッチが閉められた。完全に閉められる刹那、殺気立ったARUS軍が雪崩れ込むように突入してくる光景を見てしまった。蹴破られたドアから煙と一緒に入ってくる、土砂のような軍人達。それに挑む名前の細い、血まみれの背中。
 手を伸ばしても届かない。
 何重もの壁に遮られて、声も、姿も、何も。
「名前! ここを開けろ、名前!」
 喉が引き裂かれても良いと思った。彼女が戻ってきてくれるのならば。だが、叶わない。
 がたん、とポッドが揺れた。
 急激に重力がかかり、その勢いに負けて頭をコンソールに打ち付けた。ぐらぐらと視界が回る。段々世界が暗くなる中で、残像のように彼女の笑顔がちらついた。名前。名前を呼んでも応えはない。君がもし、もっと弱かったら。助けて欲しいと縋り付いてくれていたなら。一緒に逃げようとポッドに潜り込んでくれたら。
「どうして!」
 何もかも抱え込んで戦おうとするあの背中の強さに憧れて、憎んだ。
 最期に触れた唇の感触と、わずかに滲む血の味が消えようとする。忘れたくない。それなのに、全身に回る薬が全てを奪い去ろうとする。彼女の笑顔も、血と埃で薄汚れた髪の色も、抱きしめられた時に感じた甘い香りも、触れた唇の柔らかさも。
 暗闇に飲み込まれてしまう。見えないはずの無限の星空に落ちていくように、エルエルフの意識は黒く塗りつぶされていった。

 目が覚めた時、エルエルフは清潔で白い天井の下に寝かされていた。ドルシアに戻ってきた、と、辺りに漂う匂いから感覚的に理解した。傍らには誰も居ない。ただ右手にずっとペンダントを握りしめていたせいか、手のひらに赤黒い痕が残っていた。誰かの乾いた血にまみれた、細やかな盾のペンダント。
 それ以外は、何も。
 何もなかった。

 ***

 山田ライゾウを独房に勾留するように命じ、エルエルフは司令室に戻る道を急いでいた。何もかも振り切るように闊歩するエルエルフに話かけようとする人間はいない。けれど一人、追いすがってくる人影があった。
「どうしてあんな事言ったんだ!」
 開口一番叫ばれて、エルエルフは耳障りだと言いたげに僅か目を細めた。
「あんな事?」
「犬塚先輩も山田くんも、大事な友達を亡くしたばっかりで」
 ああ、と思い至る。
 情に流されて戦争はするべきではない、というあれだ。確かにあれは自分自身の価値観の一部ではあるが、それだけに縛られて生きている訳ではない。
 犬塚キューマと山田ライゾウはパイロット適性が飛び抜けて高く、これからの作戦に必要と思われたからだ。二人を煽る共通のキーワードは復讐。それをつついてやっただけ。自ら乗り込む意識の高さが、戦いには必要になってくる。
 威嚇する犬のように歯を剥いて目を吊り上げるハルトに向き直り、エルエルフは薄ら寒い笑みを浮かべた。
「だから、ヴァルヴレイヴを用いたあいつらの復讐を許せ、と? お前は友人を人殺しにしたいのか」
「……そう言う訳じゃ」
 目を伏せ、逸らし否定する。ならば何が問題だと言うのだろう。
「こんな時勢だ。愛した女の一人や二人失った奴なんて、珍しくもない。一時の感情に身を任せて破滅するなど、馬鹿のすることだ」
 そう吐き捨てると、ハルトの目が丸くなった。
「エルエルフ……お前も、もしかして。あの写真の人か? それとも……」
 いつも写真の入っているポケット、左足がじくりとざわついた。無意識に服の上からペンダントに触れる。
 下手に体を貸すとこれだ。
 やはり自分の目の届かないところで好き勝手されると後のフォローが厄介。ハルトもただの朴念仁ではなく、妙な所で聡い一面があるのも問題か。何にせよ、触れられたくない場所がある。一歩引き、全力を込めて睨みつけた。
「邪推と詮索は身を滅ぼす」
 う、と狼狽したハルトの顔色が変わった。
「時縞ハルト。お前は……精々大事にするんだな。手の届く範囲にいる幸福を」
 力無き意志は無意味だ、と誰が初めに言っただろう。
 弱いものの手には何も残らない。強いものが全て奪ってしまうのだから。
 名前は強かった。あの場所の誰よりも強くて、高潔で美しかった。だから、奪って去って行った。エルエルフを守ろうとする真っ直ぐな背中と、どうしようもなく自分達を押し流そうとする運命に彼女を奪われた。

きみが弱ければよかった
 みっともないぐらい死にたくないと縋ってくれたら
 こんなにも、このペンダントは重くならなかったのに

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