人は何故、夢を見てしまうのだろう。

「笑えるね」
「…は?」
「この映画、意外と面白いよ」
「急にどうした」

午前一時を過ぎた頃、灯りが眩しい屯所の居間。淡々と流れるテレビの音は気を紛れさせるのに丁度いい。風が靡く気配もない今夜は、きっと無数の星が輝いているだろう。平凡で穏やかな夜は、昼間の喧騒や早朝の清々しさから程遠い。誰もが明日のために休息を取る時間帯。不規則な勤務ばかりとはいえ、皆が眠っているこの時間は居間を使う隊士もいない。一日の任務を終えた俺は、風呂に入って黒の着流しに着替えたばかりだった。いくら着慣れたとはいえ、堅苦しい隊服から解放される貴重な時間を無駄にしたくない。せめて明日の準備を整えておこうと考えてから、刀と刀回りの道具一式を自室から持ち出し、居間で刃渡りの状態を確かめる。眠る前に刀の手入れを行う習慣がついたのは、一体いつからだろうか。思い出すのも面倒になった俺は、欠伸を誤魔化すため煙草のフィルターを噛んでみる。ふいに聞こえたのは、板張りの廊下が微かに軋む音だ。ぎしぎしと重い音ではなく、廊下を忍び足で歩くような気遣いを秘めている。居間の前で音は止まり、開かれた障子の向こうから姿を見せたのがカップ麺と割り箸を手にした副長補佐の苗字だった。ようやく始末書を書き終えたと首筋を伸ばしながら、卓袱台にカップ麺を置いたコイツは無遠慮に座り込む。テレビのチャンネルを適当に変えた苗字は、俺のことなんてお構いなしといった様子でカップ麺をすすり始めた。途端に居間は乳臭い匂いで充満し、思わず顔をしかめてしまう。コイツの好物は、シーフード味のカップ麺だ。湯ではなく沸騰した牛乳を注いで食べると最高にうまいと断言し、夜食には決まって牛乳入りのカップ麺を食べている。気味悪い味覚だと指摘した経験もあるが、マヨネーズより百倍マシだろうと突っぱねられた過去も今となっては懐かしい。甘ったるい匂いを垂れ流すカップ麺と同じくらい野暮ったい台詞が、テレビから聞こえてくる。異国の映画なのか、主人公の男の恋人と思われる女が瀕死の状態でありきたりな愛の言葉を並べていた。

「オマエはこういう話が好きなのか」
「んー、嫌い」
「そうか」
「せめてもう少し気の利いた言葉にすればいいじゃん、愛してるなんて大根役者でも言える」
「厳しいな」
「こんなところで働いてたら、愛なんて忘れて当然じゃない?」

ふーふーと箸に息を吹きかけ、節操ない音を立ててカップ麺を食べるコイツは、俺と目を合わさない。多分、こういう話を俺に持ちかけてしまったことを後悔しているのだろう。惚れた女の死に際を看取るどころか、その場に立ち会わなかった非常な男。それが俺だ。映画は俺達の会話なんて素知らぬ顔で、勝手に話を進めてしまう。主人公の男は狼狽えながらも女を抱きかかえ、今すぐ助けてやるなどと無責任なことを言い始めた。

「どうせ何もできないくせに」
「作り話に突っかかってどーすんだ」
「副長だったらこういうときに何て言う?」
「さァな」
「うまい返事の一つや二つできないとモテないよ?」
「別に構わねェ」
「強がるのは副長の悪い癖だね」
「余計なお世話だ」

険悪な雰囲気ではなかったが、俺があまりに素っ気ない答えを繰り返すのが癪に障ったのだろう。カップ麺の容器を卓袱台に置いた苗字は、素早く俺の額に手を伸ばす。咄嗟に刀を手放しソイツの手を掴むと、もう片方の手が不意打ちと言わんばかりに俺の額を強く弾いた。細い指のくせに馬鹿力なのか、地味に痛い。デコピンだなんてガキじゃあるまいしと説教したかったが、コイツの子供じみた性格なんて随分前から把握している。

「痛ェだろーが」
「こっちだって痛いから、副長の頭硬すぎ」

不機嫌そうに頬をふくらませた苗字は気が済んだのか、カップ麺の残り汁を飲み干していく。これから唇を重ねたら、乳臭い風味が舌の上をざらつかせるのだろう。決して気分のいい話ではないが、熱が交わる感触は嫌いじゃない。大体コイツが居間でカップ麺を食べるのも、俺が自室以外で刀の手入れをするのも、適当な理由を探しているからだ。

三文芝居より安っぽい、感情の行き場を求めて。





雨音にけたたましく急かされる。月も星も見えない空は薄明るく、絶望的な気分になった。暗い路地裏には水溜まりがいくつもあったが、いちいち避ける余裕はない。革靴は遠慮なく水を吸い、上着はぐっしょりと濡れていた。口に咥えていた煙草の火など、もうとっくに消えている。息を切らして角を曲がると、道の片隅で倒れている隊服姿が視界に映った。駆け寄って抱きかかえると、ソイツは億劫そうに目を開ける。

「…副長?」
「しっかりしろ」
「一応、全員、斬ったつもりで…」
「いいから喋るな」

ひゅーひゅーと呼吸できていない音を漏らしながら、苗字は申し訳なさそうな顔をした。冷たく感じられるのは、雨のせいで何もかもが濡れているからだと思い込んでしまいたい。必死に次の言葉を探したが、腹の中でぐるぐると言葉が回るだけで何も吐き出せないままだ。攘夷志士の討伐、斬り合い。単純な争い事だが、取り逃すのだけは御免だとばかりに副長補佐であるコイツは働いてしまった。普段は勤勉な姿勢なんてロクに見せないのに、こういうときだけきっちりと意地を見せる。そんな性分だって、嫌になるほど知っていたのに。

「副長不在のときくらい、副長補佐が動かないと」
「だからってオマエ、」
「やっぱり思いつかないや…最期の言葉、何も」
「黙ってろ、今」

助けてやる、なんて簡単に言いたくない。雨水で流し切れないほどの赤は、既に俺の手をべっとりと汚している。助けられない。今までくぐってきた修羅場の数が、無言でそう囁きかける。

「助けてやる」

情けない声でそう呟くと、苗字は弱々しく唇を震わせた。同時に伸びてきた手は、迷わずに俺の額を標的にする。

「…嘘つくのも、副長の悪い癖」

力なく俺の額を弾くコイツは、それきり動かなくなった。お互いに避けていた言葉は、最後まで言わないままで。

「馬鹿野郎、」

悪態をつけば、湿気た煙草は口元から地面へと音もなく落ちる。噛みしめた唇は痛み、鉄臭い味が口の中をじわりと浸食した。乳臭くてやたら甘いあの味は、もう二度と味わえない。くだらない映画は、茶番劇にさえなれないまま幕引きを迎えてしまった。何気ない昨日と呆気ない今日。どちらが幻なら、俺は救われるのだろうか。雨音が遠ざかっても現をかき消せないまま、俺はその場から動けずにいた。


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