きみのしあわせ
※創作マフィアパロの主人公ニコとダンの話
帰宅した我が家は暗くてしんと静まり返っていた。それもそのはず、既にぼんやり空の向こう側が明らみ始めたような時刻だ。疲労故に、風呂に入る気も食事を摂る気にもならず、冷たい廊下を歩きながらジャケットやらネクタイやら放り投げていく。皺になるのも構わない、既に汚れていたものだ。なんなら、明日捨ててしまおうとぼんやりとした頭で考えた。指先の冷たい素足は、迷うことなく寝室に向いていた。
戸を開けると、暗闇に慣れた目がベッドの上の山を捉えた。その山は、規則正しく小さな寝息をたてている。猫にしてはちと、大柄だ。それを拾ったのは四年くらい前の事になる。ちょうど、手酷く扱われていたのを、手が欲しかったのもあって拾った。それだけだった。
しかし、新しい寝床や服を買い与えても、それは物覚えが悪く使おうとしない。今だって、勝手知ったると人様のシャツを羽織り、勝手に人のベッドに潜り込んでいた。またか、という気持ち半分、そんなのどうでもいい位に早く寝てしまいたい。結局とったのは後者で、ベッドを陣取るそれの横に体を投げ出した。
「ダン、おかえり」
覚醒しきらない、舌ったらずな声が耳に届く。起こしてしまった、と柄にもなく思った。のそりと起き上がって近付いてくる気配。耳元を吐息が掠めた。声を返すのも億劫で、振り返って手を軽く挙げることで返事する。ぼんやりと青白い肌が暗闇に浮いていた。
「んん」
満足したのか、それは小さく声を上げたあと、恐る恐るとこちらの懐に入り込んできた。自身の冷えた指先が、細い輪郭を捉える。思ったよりも、厚みのない肉体と、重みに、少々物足りなさを感じながらも、折ってしまわないようにと丁寧に引き寄せた。首筋で、ふっと温かい吐息が漏れる。
「おやすみ」
囁きが耳に届く。じんわりと暖かくなった腕の中の塊を抱き直しながら、ああ悪くないな、と笑ってしまった。
「おやすみ、ニコ」
目覚めて第一に、隣の温もりがないことに気づいた。ぼんやりとした視界で、抱き枕を引き寄せようとしたら、手は空を切る。シーツに指をたて、握る。あれ、まさか、逃げられた。
「ニコぉ」
「おはよう」
名前を呼ぶと案外すぐに声が返ってきた。
「どこ行ってたんだ、お前」
やっとこさ焦点があい、声のした方を見れば部屋の入り口に抱き枕がいる。
服は昨日朧気な視界で捉えたのと同じ、俺のシャツだ。というか、シャツ以外なにも羽織っていない。しかし、色気がないのはその足にさほど筋肉がついていないせいだろうか。それでも拾ってきた頃よりは多少肉のついた白い素足を眺めていると、嫌そうに顔をしかめられる。
「メシ。朝、だから」
たどたどしく、単語が投げられた。共に暮らして数年は経つが、言葉を覚えるのすら「メンドクサイ」の一言で片付けてしまう彼は、未だ日本語を習得したとは言い難い。その上、日常で会話をするのがほとんど俺だけのため、言葉遣いはあまりよろしくない。
「朝飯食ったの?俺の分は?」
「ねえ」
やはりその顔は仏頂面だ。笑うように名前を付けたのに、いかんせんその表情筋は柔らかくならない。
がばりと上体を起こして手招きすると、彼はなんの警戒心もなくベッドの端までやって来た。
「ニコ、ちょっと笑ってみろ」
「はん?」
彼は返事と共にちょいと片眉を上げて訝しむ。
「ニコだけに、ほら、ニコ〜っと」
「……それは、あれだな、あー…」
自分の口端に指をやって小首をかしげて見せると、なにかを思い出そうと視線を空へ泳がせる。難しい顔が更に渋くなった。いっそう、笑顔と遠くなった。
「ああ、ババギャグ」
「親父ギャグな。性別逆な」
そこではないのだけれど。気が抜けて、再びベッドに沈み込む。端整な顔をしているというのに、可愛いげがないのはやはり、そのしかめられた顔のせいだろうか。
地下の奥で飼われていた彼は、人を知らない。言葉も知らなければ、感情も知らなかった。表情も、やっと少しだけ色がついてきたばかりである。
どうすれば、彼を人間にしてあげられるだろう。どうすれば、人並みに幸せを感じることができるだろう。
なんて、ぐるぐると人が悩んでいる最中だ。
「ダン、気持ち悪い」
「…………。あん?」
そんな直球に暴言を言われたのは初めてで、一瞬戸惑った。反抗期という言葉が思い浮かぶ。ぐさっ。うっ、自分に刺さった。
「き、も、……キモい?」
「言い変えても一緒だバカ」
だが、どうにも言葉がしっくりこないようで、ニコもニコで戸惑ったような、渋い顔をしている。
「ダンは、朝飯ねえから怒った?俺が、駄目なこと、したか?」
悩んだ末、彼はそれを聞いた。そんな事で気に障るほど小さい男ではないのだけれど。
珍しく「笑え」などと言ったものだから、こちらが気分を害していると思ったのだろうか。
「馬鹿、ちげぇよ。ただ俺は、」
けれどその先は続かなかった。馬鹿なことを言ったのは俺だ。数年を過ごしただけの自分に、なにを言う権利があろうか。彼はもう、自由なのに。
「ダン、怒ってるのか。俺のこと、抱く?」
「うるせえ抱くかよ。お前、体で物事を解決しようとするんじゃ」
するりとすり寄ってきた彼に、続く言葉を遮られた。こちらの足の間に体を滑り込ませ、ぺたりと胸板に顔を預けてくる。恐る恐る背中に回った手は、力が入っていないのか肌を掠めてくすぐったい。驚くほど体重が感じられず、つい骨ばった背中を支えた。
ふふ、と首筋に吐息がかかる。
「ダンは、えっちぃだな。すけべぇ、だ」
「それは、お前の日頃の行いのせいだからな」
抱くとは、このことか、と舌打ち。いらぬ勘違いをしてしまった。というより、日々事有るごとに体の関係を迫ってくるニコが悪い。照れ隠しもあってぶつくさと文句を言っていると、ふう、と彼は息を吐く。体の力を抜いて身を委ねてくると、小さな声で「しあわせ」と囁いた。
呆気なく溢された言葉に、思わずと引き剥がして肩を掴む。きょとんと瞬きを繰り返す彼は、なんのことかわからずじっとこちらを見つめた。
「ニコ、お前は、幸せなのかよ」
声が掠れた。それでも聞き取れたのか、ニコは少しだけ目を見開き、そしてゆったりと閉じた。
「朝、起きて、あったけぇって思って、寒ぃのがなくて、うまい飯が食えて、風呂に入れて、」
ぽつり、ぽつりと彼は指折り数えて宝物を出す子どもみたく、普段のなんの変哲もない生活を口に出していく。
「それから、ダンがいる」
それ以上に、なにがいるんだ。なんて、純粋に他は望まないと言い切った。
「でも、」それでもと食い下がる俺に、ニコは首を横に振りーー少しだけ目を細める。
「なら、お願いする。いっこ」
思わず釣られて頷くと、ニコは再び体を寄せてきた。咄嗟に手を広げ受け入れる。
「もうちょっと、このまま」
「……ばかだな、お前は」
それなら彼の「しあわせ」が続くように、この緩やかな生活を享受しようじゃないか。
2018.0212.