始まりは


 
 鈴虫の音がとても美しい夜でした。
 お付きの者によれば月も大層きれいなようですが、目の見えないわたくしにはわからないことです。
 とても残念に思います。

 ところで、もう休む時間だと思うのですが、わたくしの部屋に突然あのひとがいらっしゃったのです。
 目が見えなくても、足音でわかります。まるで小鳥のようにふわりと軽く、けれどもしっかりと地を蹴る力強い足音。
 間違いなく、あのひとです。

 あのひとはわたくしの部屋の前で立ち止まりました。
「伊都、入ってもいいだろうか?」
「ええ、もちろんよ」
 わたくしがあのひとの申し出を断るわけがないのです。
 静かに障子を開け、あのひとが部屋に入ってくると、わたくしの体は少しばかり強張ります。
 なぜなのでしょう?

 ――きっと、あのひとの持つ空気や何かがそうさせるのです。けれど、わたくしはこの緊張と安らぎが入り混じるような感覚が好きでした。

 お布団の中で半身を起こし、鈴虫の歌声に耳を澄ませていたわたくしの傍に、あのひとは腰を下ろしました。
「こんな時間にすまないな。もう寝るところだっただろう?」
「ええ。でも、今夜は鈴虫たちが……ほら、聞こえるでしょう? この清らかな音色をもっと聴いていたくて」
「そうか。……うむ、確かにきれいな音色だ」
 あのひとが、目を閉じ、静かに耳を澄ませているのがわかりました。
「月もきれいなのでしょう?」
「……ああ。とてもきれいな満月だ」
 あのひとの声が、少しだけ低くなりました。ああ、悲しませてしまったかしら……。
 わたくしの目が見えないのはあのひとのせいではないけれど、あのひとはまるで自分のことのように悲しむのです。
 わたくしは、申し訳なさで胸がいっぱいになりました。話題を変えなくては……。

「そういえば、どうしてこちらへいらっしゃったの?」
 努めて自然に話しかけたつもりでしたが、少し声がうわずってしまったかもしれません。
「……いや、特に意味はないが」
 嘘です。あのひとは意味もなく行動するような人ではありません。
「うそ……つかなくてはいけないようなこと?」
「……すまない。そんなつもりではなかった 」
「大丈夫、怒ってないわ」
「ふっ……そうか。やはりそなたには叶わないな伊都」
 あのひとが、短く息を吐き、微笑んだのがわかりました。心なしか、わたくしの胸の内のもやも晴れたような気がします。

「……そなたの具合が芳しくないと聞いてな」
 あのひとがぽそりと呟きました。
「……あら、心配してくださったの?」
「当然だろう。この世に我が妻の大事を聞いて、心配せずにいられる夫がいるものか」
 あのひとの、強い眼差しを感じました。その視線がなんだかくすぐったくて、思わず、ふふふ、と笑みがこぼれてしまいました。
「なんだ、なにかおかしいか?」
「いいえ。ありがとう、嬉しいわ。でもわたくしは大丈夫よ。この通り、何も問題ないわ」
 笑顔を作ったつもりだけれど、あのひとには見透かされてしまうかしら。
「……そうか。それならいい。くれぐれも無理はするな」
 そう言ってあのひとは静かに立ち上がりました。
「もう行ってしまうの?」
「……ああ。すまない、まだ公務の途中なのだ。……気にせず、そなたはゆるりと休んでくれ」
 上から降ってくるあのひとの声は、どこか寂しさを含んでいるような気がしました。
「こんな時間までお仕事をなさっているのね……ごめんなさい、何もお力になれなくて」
「そなたが謝ることではない。……わずかでも話せてよかった」
 あのひとの指が、わたくしの髪に少し遠慮がちに触れました。





 わたくしの目はあのひとの姿を映すことはできないけれど、そのかわりなのでしょうか……あのひとの内側を見ることができました。感じる……といった方が正しいのかもしれません。


 あのひとは寂しい人です。
 何もかもを持っているのに、何も持っていないのです。
 堂々として威厳があって、この世の全てを知っているようでいて、その実何も知らないのです。
 とても空虚で寂しい人。


 けれど、その内には大きな熱を秘めているのだと感じます。何かを求めるも理解されず、あるいは己が何を求めているのかもわからず、求めても得られないがために燻らせている熱。
 それを垣間見るたびに、わたくしはもどかしい気持ちになるのです。



 もしも、わたくしの瞳が光を映すことができたなら。
 もしも、空の下を自由に駆けることのできる健やかな体を持っていたならば。
 もしも、あのひとのすべてを知ることができたなら。




 わたくしは、あのひとの望むどんなものにだってなってみせるのに。








 ――それからどれだけの月日が流れたでしょうか。



 わたくしは、自分がもう長くないことを知りました。死ぬことは怖くないけれど、せめてあのひとに何かを残したいと思いました。本当に一人になってしまうあのひとへ。


 ……そうね、あのひとは忙しくてなかなかお会いできないから、お手紙でも書きましょうか。


 お付きの者に、一言一言、紡ぐ言葉をしたためてもらいました。




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