又兵衛様と猫


 
 穏やかな午後の日差しの中、それとはまるで正反対の陰気な男が一人、開いた帳面を睨みながらふらふらと歩いていた。
 歪な形の刃を手に、老爺のように腰を曲げ、何やらぶつぶつと呟いている。
「クソがクソがクソがクソがクソが……! なんなんだよぉ……なぁ〜んで又兵衛様の邪魔ばっかりするんですかねぇ〜? あいつもあいつもあいつもあいつも……! ヒッ、ケーケケケケ……み〜んなまとめて閻魔帳に書いてやろ〜っと」
 筆を取り出し、ものすごい速さで名前らしきものを書き込んでいく。あっという間に、帳面は殴り書きの汚い字で埋まった。
「……ちっ、もう多すぎて順位がわかんねぇぞ……めんどくせぇけど、ちょ〜っと整理しますかねぇ。お〜い、お前ら〜ちょっと休憩だぁ〜」
 後ろにいる浪人衆に向かって言うと、自分は丁度いい木を見つけ、もたれかかって座り込む。木陰は涼しく心地がいい。兜を外して傍に置き、閻魔帳を開いた。
「……こいつは34位……27位……ちっ、こいつは8位だぁ……」
 ぶつぶつと言いながら、すでに書き込んだ名前に数字を足していく。
「あとはこれを順位ごとに清書して〜……」
 見た目によらず、存外几帳面な性格らしい。


「ま〜たべえ〜! 遊んで〜!」
 突然脇腹に衝撃が走った。手元が揺れたせいで帳面に墨が飛び散った。
「――っ! ……痛ってぇなぁ〜!? あぁ!? てめぇ、伊都〜……」
 又兵衛は、腹に勢いよく抱き付いてきたそれを乱暴に引き剥がした。
「ねえ! 暇! すっごい暇! 遊ぼ!」
「はぁ〜? 俺様は忙しいんだよぉ……お前に構ってる時間ねぇの。どっか行ってろ」
「え〜なんでよ〜、あんたが忙しくてもあたしは暇なんだけど〜……ねぇ、遊ぼう?」
 又兵衛の手を振り払い、隙をついて膝の上に陣取る。
「あぁ? ……お前〜……それ本当邪魔、うざい、消えろ」
 又兵衛は伊都を無理矢理掴みあげて遠くに放り投げた。しっしっと手を払うと、放り投げた小さなそれは、むっとした顔をして走り去った。
「ちっ……めんどくせぇ〜……」


 ――それからしばらくの時が経った。
 ようやく閻魔帳が完成し、又兵衛は満足そうに――はたから見ればただ薄気味悪いだけの――笑みを浮かべた。
「あぁ〜……やっと終わった〜……そういや伊都の奴どこ行ったんだぁ?」
 さっきから姿を見ていなかった。
「……しょうがねぇなぁ〜……ちょっとくらい構ってやるとしますかねぇ〜」
 腰を上げ、辺りを見渡す。
 すると、各々休んでいた浪人衆の一人の膝に伊都を見つけた。気持ちよさそうに、丸くなってくつろいでいる。
「お〜い、伊都〜。又兵衛様が遊んでやりますよぉ〜」
 伊都は気だるげに起き上がり、小さな口を開けてあくびをした。
「えぇ〜? ……あ〜ごめんね〜、あたし忙しいから無理〜。後で遊んであげるから〜」
 ふいっとそっぽを向き、浪人衆の膝から飛び降りると、しなやかな足取りでどこかへ行ってしまった。
「……は、はぁあぁぁ!? あ、あ、あのクソアマァァ! せ〜っかく俺様が構ってやろうと……許さねぇ……絶対に許さねぇからなぁ〜! 閻魔帳に書くぞてめぇ!」
 又兵衛の怒りに染まった叫び声がこだました。


「……又兵衛様? まだ行かないんですかい?」
 浪人衆が、木陰で横になっている又兵衛に呼びかけた。伊都に振られてからずっとこの調子である。
「うるせぇ〜なぁ〜……俺様は眠いんだよぉ〜……クソがぁ……伊都の奴……許さねぇ……」
 ぶつぶつと文句を言う又兵衛から離れ、浪人衆は溜息をついてひそひそと話し合った。
(あれ完全にふて寝だよな)
(ああ、これで何度目だよ)
(又兵衛様、よっぽど伊都と遊びたかったんだな)


 目を覚ますと、辺りはすっかり夕焼け模様だった。少しだけ眠るつもりが、いつのまにか本気で寝ていたらしい。
「……くっそ……あいつのせいで……」
 ふと、胸あたりに違和感を覚えた。
 見ると、横向きになっていた自分の腕の中に、見覚えのあるものが入り込んでいた。――伊都が、又兵衛の腕の中で可愛らしい寝息を立てていた。
「…………」
 横になった体勢のまま、じっと伊都の寝顔を見つめる。起こさぬように、そっと片手で頭を撫でてみた。長いまつ毛がふるふると震える。
 伊都は寝ぼけているのか、又兵衛の腕に、その温かい体をすり寄せた。
「……っ、しょ、しょうがないです、ねぇ……今回だけですからねぇ……ちっ……ゆ、許してやるよぉ……」
 にやける顔もそのままに、又兵衛は伊都を思いっきり抱きしめた。びっくりして起きた伊都に顔を引っかかれ、またぎゃーぎゃーと騒ぐ又兵衛を、浪人衆が微笑ましく見守っていた。



(又兵衛様、本当に伊都が好きだよな)
(すっかりいいように振り回されてるけどな)
(毎度毎度何回同じこと繰り返してるんだろうな)



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