仕える者



「マリア様、菓子をお持ちしました」
「あら、ありがとう。そこに置いてちょうだい」
 高い天井に布を巡らせ、自らを宙に浮かせたマリアは気怠げに答えて体をくねらせた。そこ、という割にはこちらを見ようともしない。
 伊織はいつも通り、マリアのお気に入りである南蛮製の丸机――ティーテーブルというらしい――に手際よく菓子と茶を並べる。詳細な指示などされなくとも、この部屋の勝手はわかりきっている。
「失礼致します」
 お盆を手に一礼し立ち去ろうとすると、珍しくマリアに呼び止められた。
「――ねぇ待って。たまには一緒にお茶でもしましょう」
「は……いえ、私は……」
「いいじゃない。妾の誘いを断るつもり?」
「……かしこまりました」
 マリアはよほど暇を持て余していようだった。でなければ、一介の使用人相手にこのような誘いなど持ちかけるはずもない。
 伊織はそれを察し、まだ雑務が残っていることを飲み込んで渋々了承した。後で上長に怒られる図が目に浮かんだが、そんなことよりも今目の前にいる主の機嫌を損ねることの方が一大事だと判断した。

 するすると滑るように、マリアは地上に降り立った。優雅な足取りで踊るように歩く。甘い匂いにつられてテーブルに目をやったマリアの表情が、わかりやすく曇った。
「あら……今日はお饅頭なのね。妾は南蛮の菓子の方が好みよ」
「存じておりますが、生憎と南蛮菓子は切らしておりまして……申し訳ありません。しかし、これも評判のよい物ですので」
 漆塗りの高価な器に高く積み上げられた饅頭を眺め、マリアは溜息を吐いた。傍にはこれまた高価な茶碗で点てられた、いかにも苦くて濃厚そうな緑色のお茶。それはマリアが望んだ南蛮のティータイムとは、天と地ほどにかけ離れたものだった。
「……そうね。納得はいかないけれど、今回は許してあげるわ。無いものを無理にねだるほど、妾の心は狭くないもの。どう? 寛容で心優しい主人を持って幸せでしょう?」
「ええ……ありがとうございます」
 素直に喜べないような気もしたが、伊織はにこやかに笑ってみせた。マリアの満足そうな笑みを見ると、些細なことなどどうでもよく思えた。

 伊織は自分の分のお茶と、ついでに少し冷めてしまったマリアの茶を汲み直しに一度部屋を離れた。

 伊織が戻ると、マリアが退屈そうに頬杖をついて待っていた。
「――すみません、お待たせしました。あの……先に召しあがって頂いてもよかったのですが」
 言いながら、マリアの前に茶を差し出す。
 熱過ぎずぬる過ぎず、丁度良く淹れられた茶は伊織の自信作だ。
「それはダメよ。毒見役が一番初めに食さないと」
「……そうですね。失礼しました」
 とても恥ずかしい勘違いをしてしまった。

「ではお先に失礼して……いただきます」
 饅頭を一つ手に取り、ゆっくりと口に運ぶ。毒など入っているはずもないのだが、いざ毒見といわれるとどうにも緊張する。こちらをじっと見つめるマリアの視線もなんだか気まずい。
 恐る恐る一口かじると、餡子の甘味が口いっぱいに広がった。
「……美味しゅうございます」
 マリアも饅頭を一つつまみ、小さな口で小さくかじった。
「……本当。意外と美味しいわね」
 饅頭を手に茶を啜る姿ですら、思わず見惚れるほどに美しい。
 伊織の視線に気づいたのか、マリアは意味ありげな微笑を浮かべた。
「お饅頭を食す妾も美しいでしょう?」
「えっ、あ、はい」
「そんなに照れなくてもいいのよ。妾がどんな時でも美しいのは紛れもない真実なんだから。――それにしても、やっぱり美しくないわ」
「饅頭がですか?」
「ええ。なんだか野暮ったいのよね。南蛮の菓子の鮮やかな色使いや可愛らしい形は、見習うべきね」
 形のいい唇を尖らせて、山盛りの饅頭をつんつんとつつく。時折見せる子供のような振舞いも、彼女の魅力の一つなのかもしれない。
 ふと、マリアの茶碗が空になっていることに気が付いた。密かに満足感に浸りながら、伊織も自分の茶を飲み干そうと茶碗を傾ける。
 マリアが真顔で尋ねた。
「ねぇ、あなたは妾を求めないの?」
「――求める、とは?」
「妾は美しいでしょう?」
「そうですね」
「美しい妾を欲しいとは思わないの? 自分のものにしたいって、思わないのかしら」
 さも不思議そうに小首をかしげるマリアに、伊織は素直に答えた。
「私はマリア様にお仕えする身ですよ? 主人を己のものにしたいなど、ただの使用人としておこがましいことこの上ないと思うのですが」
「そう? でも、他の使用人たちは妾を欲しているわよ? ――妾にはわかるの。美しい妾にみなうっとりと見惚れているでしょう。だって、物欲しそうな視線をいつも感じるもの」
 でも、とマリアは続ける。
「あなただけは違う。たしかによく働いてくれているけれど、ただそれだけ。決して妾自身を求めているわけではないわ。なぜなのかしら?」
 なぜ、と言われても先程の答えがすべてだった伊織は返答に困ってしまった。
 マリアは自分の主人であり、自分はマリアが不自由のないように身の回りの世話をするだけ。求めるということは、あわよくばマリアとどうにかなりたいということだろう。それは、主人を己と対等に見ているということではないのだろうか。
「……あの、ですね。私たち使用人からすれば、自分の主人というものは絶対的な存在なのです。そう……ある意味、神のような。信仰し敬う神を、誰も自分だけのものにしたいとは思わないと思うのです。――少なくとも私はそう考えております」
「ふーん……神、ねぇ……」
「ご期待に応えられず申し訳ありません」
 頭を下げて謝ると、頭上からマリアの機嫌の良さそうな弾んだ声が聞こえてきた。
「ふふ、それもいいわね。絶対不可侵の女神様――なんて妾にふさわしいのかしら!」
 にこにこと満面の笑みを湛えるマリアに、伊織はほっと胸を撫で下ろした。どうやら主人の機嫌を損ねずに済んだようだ。
「求められることが最高の好意の表れだと思っていたけれど、無欲に献身的に尽くされるのもいいものね。――いいわ。伊織、これからも妾によく尽くしなさい」
 歌うようなマリアの笑い声が、伊織の耳にはとても楽しげに聞こえた。



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