その目に映るもの


 
「家康……どこだ……どこにいる……私は貴様を許さない……」


 ――まただ。三成様はまた、虚ろな瞳で、生気の欠片も感じ取れない白い顔で、ぼそりぼそりと家康への怨恨憎悪の言葉を口にする。
 
 秀吉様が家康に討ち取られてからもうかなりの月日が経つというのに、三成様は毎日ずっとこんな調子だった。以前のような、秀吉様半兵衛様に命がけで忠義を尽くす、俺の憧れたかっこいい三成様は今はもうどこにもいない。ただ家康を殺すことだけを考えて、その目には他の何も映そうとはしない。
「三成様……こんなんじゃ、あんたもう死んでるのと同じだよ……」
 今にも壊れてしまいそうな三成様を見ていられなくて、俺は目を背け下を向いた。何もできない自分が不甲斐なくて悔しい。唇を強く噛むと、わずかに血の味が広がった。

「……あれはひどく愚直な男よ。三成には太閤と賢人だけがすべてだった。……失えば、こうなることは仕方あるまい」
 俺の言葉を聞いていたのか、刑部さんがふわりと隣に舞い降りた。
「わかってますよ……。でも、本当に三成様にはお二人しかいなかったんですか」
「……ぬしは何が言いたい」
「……刑部さんは」
 言いかけたところで、早馬のいななきと蹄の音が辺りに響き渡った。
 家康の動きを隠密に探らせていた使者が、急いで三成様の前に平伏し、慌てた様子で告げた。
「――徳川が付近に降り立ったとの情報でございます! 護衛は本多忠勝、奥州伊達の姿も確認! まだ動きはありません!」
 徳川、その言葉を聞いた瞬間、三成様の瞳に鋭い殺意が光ったのが見えた。
 俺も、刑部さんも、三成様に付き従う者なら誰もが予感した。この後何が起きるのか、三成様がどう動くのか。
「……家康だと? ……家康……家康……イエヤスゥゥゥゥ!」
 甲高い叫び声を上げて、三成様は刀を握りしめ走り出す姿勢を取る。

 ――やばい、止めないと!

 今、三成様を奴らの元へ行かせるのは危険すぎる。ただの俺の勘とかじゃなくて、本当に、本当にダメだ。
 もし相手が家康一人だったなら、絶対に三成様が勝つに決まってる。たとえ雑兵が何千何万といようが、そんなもの三成様の前では数の内に入らない。
 でも、戦国最強の本多忠勝に奥州筆頭の伊達政宗。そしておそらく控えているであろう、竜の右目の片倉小十郎。他の同盟相手も、もしかしたらいるかもしれない。
 多分、どんな状況でも三成様は家康以外は相手にしないだろう。そうなると俺と刑部さんで他を抑えるしかないわけだけど、そんなのどう考えても分が悪すぎる。病の身の刑部さんに無理はさせられないし、かといって俺にその分を受け持つ力量があるのかどうか……。
 やっぱり、イカサマ無しの真っ向勝負で勝てる見込みはない。無理に突っ込んでも死ぬだけだ。
 
 俺は反射的に足を動かし、必死に三成様の眼前に飛び出した。三成様が地を蹴る間際、なんとかギリギリで行く手を阻むことができた。
「――左近っ! 貴様、何をしている! そこを退けっ! 私は家康を殺しに行く!」
「すみません三成様……ここは退けねぇッス。向こうの戦力とこっちの戦力じゃ、明らかに分が悪すぎます。一度態勢を整えてから、それから家康を狙いに行きましょうよ、ね?」
 なるべく刺激しないように言ったつもりだった。けれど、三成様の声と体は怒りで小刻みに震えていた。
「貴様……私を止めるか……家康の元へ行かせないと、そう言ったのか! 貴様も私を裏切るか!」
「ち、違いますって! 俺は絶対に三成様を裏切りません! ただ、今の状況じゃ危険すぎます。もし三成様の身に何かあったら……」
「そうよなァ、左近の言う通りよ。急いて身を滅ぼしては元も子もなかろ。奴にはじっくりと苦痛を与えてから、それから屠っても遅くはあるまい」
 珍しく刑部さんが俺の味方に付いてくれた。多分刑部さんも、今の状況で三成様を行かせるのはマズいと思ったんだと思う。
「しかし刑部っ……! すぐそこに家康がいるならば、私は即刻奴の元へと駆けその首を刎ねなければならない! 私が奴を断罪する……それが秀吉様への、私の忠義と贖罪だ! この身がどうなろうと、そんなことはどうでもいい!」 
  
 その時だった。
 怒鳴る三成様の体がよろめき、ふらふらとゆっくりその足が後退する。
 三成様の左頬が赤く腫れている。


 ――俺の右手が拳を作り、三成様の頬を思いきり殴っていた。


「……三成様、あんた、本当にわかんないんすか……何も見えてないんですか……」
「……左近、貴様やはり私を――!」
「俺は……! 俺は……三成様のことがスゲー大事です。俺だけじゃなくて、ここにいる皆、あんたについて行こうと決めた皆そうですよ。あんたのその馬鹿正直で眩しい生き方に惚れて、憧れて、支えになりたいって、そう思ってここにいるんすよ。なのにあんたは……」
 握りしめた拳にぎりぎりと力が入る。三成様の頬と同じように、俺の右手も赤くなっていた。
「あんたはまるで他を見ようとしない。あの日からずっと、秀吉様と家康のことばっかりだ。俺たちのことなんて、これっぽっちも視界に入ってない」
「…………」
「自分がどうなろうとどうでもいいとか、そんなこと言わないでくださいよ……。三成様が秀吉様や半兵衛様を大切に思っていたように、俺も刑部さんも、皆あんたのこと大切に思ってるんですよ。――あんたに、死んでほしくないんだ」
 

 ずっと疑問に思っていた。
 三成様には本当に秀吉様しかいなかったのか。
 三成様本人がどう思っているかはわからない。でも、俺が見る限りそうじゃないはずだ。

 例えば刑部さんだって、三成様のことをものすごく心配している。やり方はどうであれ、全部三成様のためを思って策を練り、病を押して動いている。
 もちろん俺だってそうだ。三成様のために、三成様を思う刑部さんのために、自分にできることを必死で考えてやってきた。
 他の奴らだって、三成様のために命を賭けて戦ってる。

 三成様には何も無くなったわけじゃない。
 秀吉様や半兵衛様とは違っても、確かにその傍に在る人たちだっているのに。

 三成様は何も見ようとしなかった。
 もういない主君と、遠くの怨敵しか見えていなかった。
 
 だから少しくらい、俺たちのことも見てほしかったんだ。
 あんたの近くには、あんたを想う人たちがいるんだってこと、知って欲しかった。



「…………」
 三成様は何も言わなかった。
 それどころか、刑部さんも周りの皆も誰も何も言わず、一切の音も無く、気まずい沈黙が俺に重大な事実を突きつけた。
 

 ――俺、今、三成様を殴った……よな? 自分の主の顔を思いきり……? 
 

「あああ!? す、すんません三成様! あの、俺、別に殴るつもりはなかったんですけど――」
「……ふん」
 慌てて弁解する俺を無視して、三成様は短く鼻を鳴らした。そして、痛々しく腫れた頬を乱暴に拭うと、くるりと俺に背を向けた。
「……刑部、真田と長曾我部を急ぎ大阪へ招集しろ。私も一度城へ戻る」
「はて……徳川の首はもう良いのか?」
「違えるな。家康は必ず私が斬滅する。そのために奴らを使うだけだ」
 不機嫌にそれだけ言うと、三成様は戸惑う兵を押し退けて大阪城の方角へと歩き出した。


「……あ、あのー……刑部さん? これってその、援軍を待って準備を整えるってことでいいんすよね? 無理矢理攻めに行くのはやめるってことですよね……?」
「……うむ、どうやらそうらしい。三成には珍しき英断よ」
「そっか……よかったー……」
「まこと、ぬしの考えはわれでは及ばぬ。よもや、自らの主君を殴り飛ばした上に説教とは……ヒヒッ、左近よ、ぬしの身にこの先何もなければよいがなァ?」
「……えっ? や、やっぱり三成様怒ってますかね……?」
「ヒーッヒッヒッ。われは知らぬ、知らぬなァ」
「え、ちょっと刑部さん!?」
「――貴様ら、いつまで遊んでいる! 私一人にすべて押し付ける気か!」
「あっ、すんません三成様! すぐ行きます!」
「やれ、せわしないのは相も変わらず、か」


 三成様に急かされるまま、俺たちはすぐにその後を追った。
 道中、三成様の顔色を窺ってみたけれど、怒っているのかどうか、俺にはやっぱりよくわからなかった。

 もしかしたら殺されるかもなあ……などと一抹の不安を抱きながら、それでも俺は、三成様と刑部さんと、三人でまた一緒に大阪に戻れることに、隠しきれない喜びを感じていた。
 


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